ふとした事から、芥川龍之介の「悠々荘」を読みました。
青空文庫で読むことが出来ます( こちら )。
大変短い文章ですが、味わいある文章で、とても景色的なヒロガリを感じさせてくれる文章だと感じました。
私はそれほど良い芥川の読者では無かったと思いますが、「羅生門」や「トロッコ」や「蜘蛛の糸」など短編集は読んでいたと思います。非常に寓話的な傾向の強い方だとおも思ってますし、短編ばかり読んでいるので長編小説を書いているかも知らないくらいの読者です。
鵠沼のある洋館の前に友人3人と佇み、洋館の中を見て主人を想像したり、ドアベルを鳴らそうと押してみたが、鳴らなかった。
というただそれだけのスケッチのような散文だと思います。
私はそれほど詳しくないので、文字通りにいろいろ受け止め感じるた感想としては、とても安らかなな気持ちで、気心の知れた友人との散歩の途中に洋館をみかけた主人公が、その名前である「悠々荘」という名前からは少しずれつつある、手間がかけられていない館を見て回り、庭に入り込み、薬瓶やら作りかけの彫刻、蝋引きの窓かけなどから住人の病状や現在の状況を推察しつつ、衝動的に呼び鈴の象牙のボタンを押してみたら鳴らなかったが、鳴っていた事を考え恐怖し、悠々荘という名とのギャップを感じた話し、と感じました。
主人公の心情はあまり吐露されませんが、私にはとても穏やかな気持ちだったのではないか?と感じました。また不思議な清々しい感覚と同居する、ちょっとだけ不穏な空気も感じ取れます。
この文章を批評する論文も1篇読ませていただきました。
芥川作品の成り立ちや芥川の個人史的な中での作品の意味合いまで、解説されると、とても納得してしまう内容でした。
いつか私も、ある作品についてこんな風に論文の形はとれないにしても、まとめてみたいなぁ、という気持ちになります。
そういえば、太宰は芥川に憧れていた、と何処かで読んだ気がします、普遍的な評価をされたい、という太宰のアンビバレントな気持が反映されているんじゃないかな、と昔感じたのを思い出したりしました。
また時間が出来たら、もう少し本を読める生活に戻りたいと思っています。
数日前に、偶然知人が新聞を読んでいて私に教えてくれました、とてもびっくりしました。
すっごく有名な監督ですし、素晴らしい映画を何本も撮ってます。
でも、中でもやはり私には「アマデウス」の監督なんですよね・・・
本当に凄いシーンだと思います。
サリエリだけが、アマデウスの才能を誰よりも理解して、そして絶対に敵わないと分かっている。が、しかし音楽の素晴らしさを共有という意味では同志なんです・・・物凄く歪んで悲しい同志なんですけれど。
史実がどうであれ、私にはこのアマデウスの、下品さと崇高さの同居がリアルに、私にとっての史実になっています。
このシーンの、凄く残酷に分からせるこのシーンのサリエリ(F・マーリー・エイブラハム)の哀しさ・・・
しかし、この2人が曲を作っていく、いや、アマデウスが導いてサリエリの協力を得て、音楽が生まれるシーン。
最高に上がるシーンです、2人だけが理解しえる瞬間が訪れる、それも一瞬。
何度見ても非常に心揺さぶられます。
簡単にお悔やみを言えるほどすべての作品を観ているわけではありませんが、亡くなられたのを残念に思います。
本当に素晴らしい作品だと思います。
大変遅ればせながら、劇場で鑑賞してきました。
3月は本当に忙しくて全然時間が無い上に体調も崩してしまい、まぁ仕方なかったです。
イーストウッド監督作品ですし、まだ劇場でかかってたので足を運びました。観客数が朝1番の回でしたが3名!ちょっとびっくり。
少しいびつな映画作品だと思います。いや、非常に挑戦的な意味で、ですけど。
主人公3名の英雄的な行動に焦点を当てた作品に、その、当事者に演じさせる、という聞いた事無い事やってます。つまり記録映画とドキュメンタリーの間をやっている感じです。変なたとえですけれど、現実に起こった事件をリメイクしたかのような作品です。普通映画にするなら役者に演じさせようとするでしょうし、いくらなんでも主役クラスの演者を本人に演じて貰うなんて聞いたことないです。
そういう意味ですっごく挑戦的な作り方をしてます。でも、この当事者3名が、思いのほか上手い!!すっごく自然に見えます。普通カメラを向けられたら緊張すると思うんだけど、全然普通!この人たちが特別なのか、イーストウッドの演出が特別なのか、不明ですけど、凄く大胆な試みです。だって役者はいらないよ、って言ってるようなものですから、役者から監督になった人が、ですよ!
で、映画は非常に挑戦的な作り方で出来上がっているのに、完成された映画を見ても変な感じがしないのがイーストウッドの凄いところですね。普通の映画にちゃんと見えます。
イーストウッド主演・監督作品に多くある漢(おとこ、と読ませます)あふれる作品ではなく、やんちゃでダメ感の強い、一見凡庸に見える3人組の男の子(と言いたくなる性格と見た目なんですが成人してます)が、突然降り掛かってきた危機的状況に、即座に、身を捨てて、立ち向かった事実への尊敬の念で出来上がっている作品だと思います。
映画内で、急に画質が違う映像が流れるので誰でも分かると思いますが、当時のニュース映像が差し込まれるし、その時の別アングルのカットをわざわざこの映画のキャスティングで新しく製作された映像が差し込まれるという不思議な作りなんですが、そういう差異というか、編集としても上手くない、無理がある、と分かっていても、映画作品として、差し込まなければならない、母親とのショットがある事で、ピースフルな映画作品に仕上がっています。
しかしこの3人の行動が本当に凄すぎる。人の評価って寝落ちして遅刻したとしても、分からないものです。でも、この人たちがいなかったら、と考えると、恐ろしいまでの惨劇になっていたと思うと、大統領の言う賞賛はその通りだと思います。
また、3人の影に埋もれてしまいがちですが、トイレが異常なのでは?と気が付く方の献身も賞賛に値する行動だと思いますし、この人も勲章もらって良いと思いました。この方も実際の方みたいですね、スゴイ。
と、いろいろ持ち上げておいてなんですが、それでも、この主役スペンサー・ストーンの宗教的判断にはある種の恐ろしさを感じるわけです。彼の宗教的信念の強さは、時に恐ろしさにも通じているように感じてしまうのです。詳しくは描かれない犯人をその合わせ鏡の相手として感じるのです。
イーストウッドの目指す先は、私には分からないけれど、この映画を撮った(記録映画とドキュメンタリーの中間の何処か、がこの映画ですよね)、という事を考えると、役者さえいらない、となるとどうしてもドキュメンタリー方面に行くんじゃないか?と思わずにはいられません。
で、その先を行ってるのは、やはりフレデリック・ワイズマンですよね。
フレデリック・ワイズマンは弁護士でもあった映画監督です(そう言えば、弁護士で映画監督ってアンドレ・カイヤット監督も、でしたね!)。私には衝撃的過ぎるほど衝撃的だった「チチカット・フォーリーズ」の監督です(の感想は こちら )。
このフレデリック・ワイズマン監督は、BGMは入れない、ナレーションも無し、編集もほぼありません。ただ、事実を事実のままに映しているのに、何か非常に恐ろしい事実に気付かされるドキュメンタリー映画作品を撮られる監督です。そういう事を考えると、イーストウッドの向かっている方向と同じベクトルのように、今作を見て感じました。
奇しくも、このイーストウッドとワイズマンは1930年生まれの同じ歳(88歳!!未だ2人とも現役!!あ、アレハンドロ・ホドロフスキー監督もほぼ同じ年ですね!)、というのが余計に感慨深いです。イーストウッドがワイズマンを尊敬していて製作したのか、はたまた、突き詰めた先が同じベクトルを向いていたのか?誰かイーストウッドにインタビューして聞いてる人いないのでしょうか?とても聞いてみたいです。
ドキュメンタリー作品が好きな方、フレデリック・ワイズマン作品が好きな方にオススメ致します。