紀里谷和明監督 KIRIYA PICTURES 吉祥寺アップリンク
タイトルが気になって観に行きました。こういうおしまい、という雰囲気が好きです、根がネガティブなもんで。初めて観る監督です。
両親は事故死して祖母と一緒に暮らしていたのですが、その祖母も在宅で病死してしまった、高校生のはな(伊藤蒼)は不思議な夢を見ているのですが、そこでは昔の日本っぽくて、侍が争っています。というのが冒頭です。
えっと、気分的に「ミッドナイトスワン」を観た後なので寛容な心持ちです、ある種すべての映画に対して優しい気持ちにさせるなんて、なかなか出来る事じゃないですよね。でも、いくらすべてに優しい気持ちになりたいから、と言ってももう金輪際2度と見たくないですけれど。
志はかなり高いと感じました。そして結構絵は頑張ってると思います、多分そんなに潤沢な予算があるわけじゃなさそうですし(というか日本映画界で潤沢な予算なんてどこにもないでしょうね・・・)、それなのに、かなり難しい絵が必要なストーリィ。まず、この点をダメなのではなく、志として評価したいです。
まず、良かった所(この出だしで察してください)。
主演の伊藤蒼さん、の泣きの演技は相当です・・・個人的に泣かれる映画って好きじゃないけれど、全編にわたって、ずっと困惑して困ってます、常に、です。まぁそういう脚本なんだから仕方ないのかも知れませんし、この俳優さんの眉毛が凄く特徴的に困ってるように見えます。なので泣き一辺倒の演技なんですけれど、それなりのバリエーションがあって凄い。それにずっと困ってる演技を続けるの、凄く大変だったと思います、お疲れ様でした、と言いたい。初めて観た方と思ったら、吉田恵輔監督「空白」のあの娘でしたか・・・他の映画でも困ってる!
凄く、凄く大きく見れば、名作成瀬己喜男監督の「乱れる」の高峰秀子さんのような大役を務めたと言っていいかと思います。
夏木マリさん、この人しかこの役にある程度の説得力を持たせる事は出来なかったと思います、ご苦労様でした、と言いたいです。
それと侍の役の出演者の皆様方、かなり大変だったと思います。侍をこういう形で使うアイディアは悪くないし、日本映画の結構重要なコンテンツだと思うので、それも良かった。
あと、とある女子高生がラスト近くにちゃんと〇〇されたのは溜飲が下がって良かったです。
そして何より、モノクロの絵はかなり頑張ってると思います、それなりにお金をかけていると思います、この点も良かった。
総合的には、1990年代のセカイ系と呼ばれる一連の映画の系譜です。だから、この映画の世界観に没入出来た人にとっては素晴らしい、という評価になると思います。逆に乗れなかった人には酷評されてしまうでしょう。
この規模の映画で扱う脚本じゃなかったのかも。ここが最初の一歩目ですけれど、このズレを志と捉えれば、凄く頑張った、とも言えるし、ズレと捉える人には最初からダメってなる。
頑張ってるだけじゃダメなのが映画という芸術でもありますよね。
非常に独特の世界観。でもオリジナリティはあまり感じないです、何処かで見た、何処かで読んだ、そういう感じの世紀末系のセカイ系。セカイ系という単語の定義は難しいところですけれど、個人的な意見でまとめると、世界の中心に自分がいる、と考えがちな思春期特有の感情を、映画なり、漫画なり、本の中で、本当に世界の中の重要な役割を何でもない自分が負わされて、その価値を見出す、という感じになろうかと思います。つまり、そういう話しです。
だから目新しさは無いです。でも頑張ってる。だけれど、細部にいろいろ無理があるんですよね、それに、2023年という今となっては、1990年代のモノが古く見えるのは仕方ないと思います。
いろいろ言いたい事はあるけれど、映画を観ている最中は割合、どうなるんだろう、という気持ちになったし、何しろ優しい気持ちになっているので、そういうのは言語化しなくても良いと思いました。
1990年代の映画が好きな方にオススメ致します。ただし、ミッドナイトスワンを観た後の評価です。もし、観てなかったら、と考えると、怖い。
Park Dae-min監督 カルチュア・パブリッシャーズ U-NEXT
ポン・ジュノ監督の傑作「パラサイト 半地下の家族」で半地下家族の姉を演じたパク・ソダムが出演しているので観ました。
気になったのが、邦題です・・・なんで成功確率100%の女、なのか・・・全然合ってない・・・
英語のタイトルは「Special Delivery」漢字表記だと「特送」なんでパーフェクトなのか全然意味不明。
邦題を付けている人たちって、本当に映画を観てつけているのでしょうか?凄く愛が足りないと思います。その程度の仕事に対する熱量でやってるのであれば、もっと向いている人がたくさんいると思うのですが・・・
相変わらず、パク・ソダムさんがカッコイイです。比較的よくある、いわゆる逃がし屋とかのジャンルはここ最近でも、エドガー・ライト監督の「ベイビー・ドライバー」やニコラス・ウィンディング・レフン監督の「ドライバー」など結構ありますけれど、新しい要素は無いものの、凄く面白かったです。
音楽との同期とか、もう既にある技術や演出を使っていますし、悪役にも、何か目新しい要素があるか?と聞かれたら何もないです。でも、ちゃんと面白いです。その大部分をパク・ソダムさんが担っていますし、最初の人物紹介の仕事で出てくるおじさんの顔芸もなかなかです。
やはりパラサイトが異常に面白すぎたのもありますけれど、これでも十分楽しめる作品です、爽快感がありますね。
ただ、本当の主役は、ポドン、です、可愛いです。
この映画の1番のクライマックスシーンを使っている予告があったので。
車が好きな方、それ以上に猫が好きな方に、オススメ致します。
サム・フェダー監督 Netflix
トランスジェンダーのキャラクターが登場する映画を観た事で少し感情的になってしまった事の反省として、勉強してみようかと思ったので観ました。
まずは定義が気になるので調べてみると
トランスジェンダーとは
出生時点の身体の観察の結果、医師により割り当てられ、出生証明書や出生届に記入された性別、あるいは続柄が、自身の性同一性またはジェンダー表現と異なる人々を示す総称
となっていますが、完全に定義として固まってはいない模様。かなり新しい概念と言えるのではないでしょうか?定義も固まっていないというのは驚きでした。まだ拡張する可能性、含まれる概念みたいなものが存在しうるのかも知れません。
今作のドキュメンタリーでは、ハリウッドで無声映画の頃から、異性装(自らの性別とは違って見える服装を纏う事)のキャラクターが存在しますし、今の感覚からすると単純に笑う事が出来ないのですが、笑いの感覚、もっと正確に言えば、マイノリティを貶める事で、その他の全員を安心させる構造を生む事で、笑いに変えている感覚を持ちました。
確かに、私(というかそもそも友人の少ない自分を例にするのが良くないのですが、自分しかいないので)の周囲にもトランスジェンダーの人はいない、ように見えます。もしかするとそのような感覚を隠して生きている人も居るのかも知れませんが。まず、ほとんどの人が映画のようなメディアの中のキャラクターとして知る存在だと思います。wiki調べですけれど2020年のアメリカでの成人の1.9%というデータが示されています。
なので、とにかく実体験が少ない上に、ハリウッド映画の初期の頃から、蔑視的に、より過激に、描く事が繰り返された為に、映画を鑑賞した人に刷り込みを与え、トランスジェンダーの人がどれだけ傷つき、イメージを損なわれたのか?を描いています。私自身もこの映画の中で挙げられるいくつかの作品を観ていますけれど、確かに笑っていた、と思いますし、それが良くなかった、とこの映画を観て感じられました。
マイノリティを蔑む事で、それ以外の人に安心感を与えて、嘲笑に参加していた事を反省する、というのは理解出来ます。大多数派だからと言って嘲笑する、というのは思考停止な感覚を持ちます。いわゆる『恥』の文化圏に存在する自分としては、嘲笑される側の屈辱感は理解出来ると思います。
ですが、文化が進化する上ではある意味仕方が無かったのかも知れない、とも感じました。多様性を受け入れる、確かに良い事ですし、先進的に感じられますけれど、どう感じるのか?について知識も理解も無かった、存在する事を考えた事が無い、考慮する事が無かった人々への刷り込みや区別というか差別は恐らくどの時代や世界でも起こりうると思います。
なので、どのような感覚で、どのような人間なのか?を実際に知る事が大切ですし、当然皆と同じような扱いを受けるべきだと思います。知らないからこそ、偏見が生まれる。そしてマイノリティだからこそ、その事に意見する事が難しいし、その発言をする人物までもを差別するきっかけを与える事にもなりかねません。なにしろ人間という社会性を伴う生き物は、いじめる事でそれ以外の大多数が結束できる、という機能を持ち合わせた生き物なのですから。
少数派を差別する事で、それ以外の『同胞』を意識する事が出来るわけで、自分に正義があると考えた『同胞』がいかに少数派である『同胞ではない』存在に残酷になれるか?は歴史が証明していると私は思います。どこまでを人、人間、仲間と考えるか?という事です。
このドキュメンタリーは映画を撮る人は義務とまで言って良いほど観た方が良いと思いますけれど、「ミッドナイトスワン」の関係者は観ていないでしょうね・・・
この映画を観た後、ミッドナイトスワンのトランスジェンダーのキャラキターは全員トランスジェンダーの役者を使うべきだと思いました。
トマーシュ・ヴァインレプ、ペトル・カズダ監督 crepuscule films シアター・イメージフォーラム
1973年に実際にあった事件を基にした映画です。どこまで事実に即しているのか?は不明ですけれど、かなり忠実な監督の意図を感じる事が出来たのが、この作品の評価に普遍性を持たせていると思います。
学校へ行かねばならない朝に気分が優れないオルガ(ミハリナ・オルシャニスカ)は・・・というのが冒頭です。
ネタバレではないと思われますし、私もだから観に行こうと思ったので、宣伝にも使われていますけれど、チェコ最後の女性死刑囚22歳、の話しです。
ネタバレは避けての感想ですけれど、かなり好感持ちました。
非常に特異なキャラクターである、ある種恵まれた環境に生きる20代の女性が、どのような経緯で事件を起こしたのか?という事を、恐らくかなり忠実に映画化しています。そして無駄にセンセーショナルにしようとしていない、恐らく盛りは少なめだと感じました。何を見せたいのか?という監督の意匠を感じられます。
裕福な家に生まれ、しかし、自尊心を満たす事が出来ず、コミュニケーション力の低い女性であるオルガの、何をもって自尊心を満たせるのか?をまず描いていくのですが、これもwiki調べではありますが、ある程度事実のようです。学校になじめず、家でも疎外感を募り、病院、職場を転々とするものの、家族からの援助なくては生きていけないオルガ。そして、自らの置かれた状況を自ら好転させようとしているのか?という部分を嫌が応にも見せつける監督の視点、カメラワークや画角含めて、客観性を感じました。
観た人が、どのように判断するのか?意見が分かれる可能性も含みつつ、しかし丹念に描いています。
ある場面で、この映画を終わらせる事も出来たと思うのです。
しかし、監督はその後まで映画化している。
この点から、私はこの監督は、観客に判断を任せていると感じましたし、事実、オルガは手紙を残しているのですが、その言葉をどのように受け取るのか?も判断を保留していると思いますし、観客に委ねています。
いくらでも、センセーショナルに出来たと思うのです。
しかし、そうはしなかった点を、個人的には評価したいし、好感を持ちました。
いわゆる犯人への共感を基にした映画的なカタルシスを求めなかった映画ですけれど、もちろん、物凄くスリリングです。
しかし言葉の強さ、選び方、凄くイイです。予告で使われているので引用しますけれど、
「サイコパスでも、私には見識がある」
こういうのは見事。フックとしても上手いです。でも本当にこの言葉を使ったのか、は不明。
何故人が人に危害を加えてしまうのか?が気になる方に、オススメ致します。
アテンション・プリーズ!
ココからはネタバレありの感想です。未見の方はご遠慮くださいませ。
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まず、オルガの言い分は何処まで信憑性があるのか?について、事件が起こるまでをかなり時間をかけて描いているのですが、理由は判然としない虐めや疎外感があるのですが、確かに、そうオルガが受け取っても仕方ない部分もあると思いますけれど、逆に、え、なんで?という事も多かったと思います。
特に、最初のガールフレンドであるイトカとの出会いも含めて象徴的なんですけれど、彼女の気を引こうとする手段のヤバさを含めてオカシイですし、関係を継続させるための手段として家をプレゼント、というのも重すぎますし、別れた後もイトカの家の扉の前で待ち伏せって、相当怖いです。
オルガ自身も、周囲を受け入れてないですし、歩み寄ろうともしていない。
そして当然家族の中で異常に奇異な存在なんですけれど、どこまで、実際の所父親からの暴力があったのか?疑問に感じる事が出来るようになっています。
確かに、映画の中で父は一言も発していないどころか、オルガを心配する素振りも感じない為に、オルガが拒絶するに十分ですけれど、そこまでに何があったのか?実際に子供への暴力があったのか?はたまたいわゆる家父長制家庭の中で父親が娘の教育を全て母親に丸投げしていたかのようにも取れる演出になっていて、疑問を挟めます。
つまり、映画の主人公ですし、一挙手一投足が全て映し出されているオルガの語り手としての信憑性、については疑問を挟める作りにしてあるのです。 特に、事件の後、弁護士との会話で、強く意識させられるのですが、家族からの暴力や職場の疎外感は、自らの行動の結果でもあったのでは?という部分、さらに統合失調症や精神疾患についての詳しい精査がなされていない事も、とても重要だと思います。
極めつけがラストの面談での自らの名乗り、そして執行に向かう際の態度ですね。 この突き放した、エモーショナルにしない作り方に、この映画の意義を感じました。
仮に、の話しですけれど、私には、オルガが確かに精神的な問題を抱えた人間であり、サポートが及ばない孤立をさせてしまうと、社会に対して強い憤りを感じ、中には事件を起こす人が存在しうる、という事なのでは無いか?と思ったのです。
もちろん、実際に虐待を受けて、職場や病院内でも疎外感、そしていじめを受けた、とも取れる作りにはなっています。 しかし、ここまで映画を観た方ならば、それがどの程度の信憑性があったのか?は不明ですし、これは映画であって、ドキュメンタリーですらなく、演者を使った作り話である、しかしより忠実に作り上げ、この事件から学ぶべき事がたくさんある、という監督の意図を感じました。
死刑制度についても、考えさせられますし、本人が望んでいる事を行うのは如何なものかな?という事についても考えさせられます。
と、いろいろ客観的な事を言ってますけれど、まず、主演のミハリナ・オルシャニスカさんの魅力だけで引っ張ってるのが凄い事です。十分に主演の眼差しと力があります。いくら猫背で歩こうとも、タバコを吸う眼差しや手つき、主演の凄みを感じましたし、実際のオルガに何処まで人間としての魅力があったのか?は結局不明なんですよね。でも、映画を観ている時はオルガにくぎ付けです、素晴らしかった。
あと弁護士の人もイイ演技でした。
父の不在という観点からも映画を解釈出来るような気がするんですけれど、どちらかと言えば母親との関係性の方が深いし問題を孕んでいるように見えました。良くも悪くも父は不在過ぎるし、完全に関係ない人に見えますね、この辺は違う解釈の人と話してみたい。
オルガを脱社会的存在、と捉えられる部分もありますし、そこを興味本位に取り上げるのも分からないではないのですが、監督はそれを意図していないと思いますし、治療を受けるべきだったし、都合3回ほど医師と向き合うチャンスがあったのですが、うまく行かなかったですし、そう言う意味で言えば不運。
出来れば死刑ではなく、もっと治療をしたり分析しなければならなかったと思います。
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