井の頭歯科

「アルルの女」

2022年4月26日 (火) 09:13

ローラン・プティ振付作品が私は好きなんですけれど、まぁバレエの話しは凄く伝わりにくいですよね。言葉が無く、しかも日常的に踊りを使って表現する、という事に慣れていない上に、私はそもそも踊った経験がほぼゼロですから、文脈的にも、マイム的にも、意味が読み取れるように(すみません、おそらくダンサーやコリオグラファーの10000分の1程度の理解だと思います。何しろ現場で何が起こっているのか全く知りませんから。経験者じゃなければおそらく全員そうでしょうけれど)なるのに時間がかかる文化です。それでも人は何かを伝える場合は言葉が最も汎用性が高いですから。言葉で説明するのが難しいと思うのですけれど、そういう場合は比較するのが最も分かりやすいのではないか?と考えています。

40分程度の作品ですし、そもそもアルフォンス・ドーデの大変短い、わずか10ページほどの小品小説です。その作品に基づく戯曲のためにジョルジュ・ビゼーが作曲した組曲でもあります。凄く有名な曲もありますし、サックスという楽器が使われている最初期の曲という事でも有名です。その作品をバレエにしたのがローラン・プティです。

振付の意図や効果について私ごときが分かることは大変少ないですし、理解できないと言い切って良いのですが、踊る人が異なるだけで、全然違う感覚になります。

私が最初に見たのは牧阿佐美バレヱ団の公演で、2000年になっていなかったと思いますが、まぁ昔です。でも非常に鮮明な記憶として残っています。その後動画配信で見たマニュエル・ルグリの踊りが本当に凄かったので。

その後、オーチャードホールの25周年のイベントで久しぶりに観劇することが出来ましたし、なんと言ってもとても有名な熊川哲也さんが踊っていましたから。この日の演目はほぼ全て振付を熊川さんが行っているのに、自分が踊る作品はプティなんだ、という疑問は湧きましたけど、それでもアルルの女が見られるのは嬉しい。熊川さんのダンスは大変アクロバティックですし、映えますし、もちろん一流です。でも、フレデリという青年の苦悩、というよりは、熊川さんというダンサーが表現するダンス、を見ているという気持ちになりました。ヴィヴェットも大変有名な吉田都さんが踊られましたが、もちろん素晴らしかったのですが、ルグリとイザベル・ゲランのような衝撃があったか?と言われると、どうかなぁとも思いますし、あくまで私の個人的な好みの問題でもあると思います。

その後も違った人の動画を見てみることはあったのですがルグリほどのショッキングさは無かったのですが、先日、水井駿介さんという若い日本人のダンサーが踊っているのを見たのですが、この人が本当に素晴らしくて。

そもそもこのバレエ作品の中でファムファタルである名前の無いアルルの女、という人物は舞台上に現れません。だから説得力を持たせられるのか?というのは主演のフレデリを踊るダンサーの力量に強く左右されます。不在の運命的な女性に惹かれていることを、自分の踊りだけで表現しなくてはならないわけです。で、それが見えるように、存在しているように感じさせるプティの振付と、フレデリを踊るダンサーの技術だけでない、何かに取り憑かれた男性の狂気、まで見せつけられた時の説得力は、非常に相乗効果を生んでいると思います。逆に言えば、説得力がない、狂気までは感じないと、とても不完全に感じられやすいと思います、簡単に誰でもが踊れる作品ではない気がします。

それとフレデリの許嫁であり、結局は身を引く事になるヴィヴェットを演じる青山季可さんというダンサーも素晴らしかったです。水井さんとの対比、という意味でも素晴らしかったです。

ファランドール前のある行為でスイッチが入ってしまった、狂気の一線を確実に彷徨っているのではなく、乗り越えてしまった、躁鬱が短期間に入れ替わる様をダンスで表現されていて、しかもクレッシェンドがかかる音楽、覗いてしまった窓の存在、それまではあくまで視線の先にいたファムファタルが狂気の中でフレデリの腕の中に存在する瞬間を見せ、世界を拒否する仕草、畳み掛けるこのあたりの振付に驚嘆します。もちろん、それまでの布石があったからこそ、なんですけれど。群舞の表現の素晴らしさも当然この作品には必要非可決です。ですが、私が最も強く心動かされるのは、ファランドールという最終章の、フレデリという1人の男性の、自分の力では抗えない魅力と確実に破滅しかない未来であっても恭順してしまう、身を任せてしまう狂気の所業に、恐ろしさと共に、なんとも言い難い神々しさも感じます。我を忘れる、というのは究極の魅力があると思います。

才能、そして、波及。

2021年3月18日 (木) 11:29

才能、センス、そういうモノに惹かれます。

ある決まった様式があり、その様式を極めつつ、さらに解釈を広げ、その先を目指す。そういう飛び受けたセンスを、カリスマ性がある、とか天才、と呼ぶのだと思います。

型を知った上で型破りが行える、自己流ではなく、基本、基礎を身体に沁み込ませる努力なくして、その先は存在しないと思います。そして、映像やら資料が蓄積され、誰もがその存在を知った上で、その先を見せる事は、とても難しくなっていきます。テクノロジーが発達すると、誰もがある程度のレベルへ行ける代わりに、オリジナリティが生まれる機会がぐっと少なくなるのではないかと思います。

フットボールで言えば、ペレの時代にオーバヘッドシュートを放てる人は世界に5人もいなかったはずですけれど、現在のフットボールでは、恐らくプロのほとんどの人が出来ると思います。真似る事は簡単ですけれど、オリジナリティを生み出す事は、とても、とても稀有な事だという事です。

私は生で見た事がありませんし、彼のオリジナリティを言葉やテクニカルの部分を説明する事が出来ません。しかし、明らかに、センスがあり、他の誰とも違うオリジナリティを感じさせ、その上、型破りな突き抜けを感じます。エピソードにも事欠かない(映画祭に呼ばれて参加したために、レッスンを休んだので団からの解雇を告げられたり、全然練習に来ないのに、いきなり本番のごとく出来たり・・・)まさに型破りな天才がこの世を去りました。

パトリック・デュポン (1959.3.14-2021.3.5)

パリオペラ座のエトワール。私が認識したのは、引退してからですし、僅かな作品しか知りませんけれど、バレエは古典芸能なので、特に、演者が誰なのか?が光る芸術だと思います、落語にも共通する部分があると思います、そういう意味で。

「失われた時を求めて」をローラン・プティが振付したこの作品は音楽と言い、振付と言い、個人的には1番どの演目よりも好きなのですが、最初に観たのはこの作品でした。本当に素晴らしく魅力的です。

落語的、と言う意味で1番分かりやすいのは、多分、永遠のアニキ、ベジャール先生の振付した「ボレロ」だと思います。古典芸能(とはいえ多分まだボレロという演目はコンテンポラリーに属すると思います)ですから、細部の違いが分からないと、この凄さは理解しにくいと思いますし、私もほぼ何も知らないに等しいのですが、まぁボレロと言ったら、普通はジョルジュ・ドンなわけです。ベジャールはドンに振り付けているわけですし。個人的にはデュポンのボレロを見るまでは、ダンサーの好みとして、マリシア・ハイデのボレロが変則的であっても面白かったし好きだったのですが、自分の好みが更新された気がします。その後様々な踊り手がボレロを踊っていますし、映像にも残っていますけれど、女性で言えばシルヴィ・ギエムも圧倒的なんですけれど、この追悼のタイミングで観たデュポンのボレロはすさまじかったです。キレのソリッドさは(こんなに映像として古くて不鮮明なのにも関わらず!!)、多分誰よりもキレッキレだと思いますし、1番恐ろしいと思ったのは、そのAndrogynousです。

首藤さんのボレロ

デュポンのボレロ

生では私は首藤康之さんのボレロを観た事があるのですが、首藤さんの場合はとても日本的で、両性を消す方向に働いていると思いますし、とても能とか詫び錆びを感じられます。が、デュポンの場合は両性ともが激しく主張し合っているのに、統合されていて、恐ろしく感じます。ちょっと見た事が無いです。そう言えば確かに普段からAndrogynous的な魅力があったと思います。

残念がれたり、惜しむほど、生前を知らなかったし、理解出来ていなかったから、悲しむという程の事を言える立場には無いのですが、残念だと思います。この人が指導者として、育てた人を見て観たかった。天才と簡単にカテゴライズされるのは、多分本人は嫌だったんじゃないかな?と思うのですが、それでも、個性溢れる唯一無二(とはいえ全員人間としては唯一無二なのは当然だとして、バレエダンサーとして、と言う意味)のダンサー。

そしてもう1人、全くジャンルは違いますけれど、長く第一線で活躍され、今年51歳になる私は幼少期から見ていたわけですが、その当時は全く認識していなかったのに、その方の仕事をそれこそ繰り返し、何度も何度も見続けた結果、ある種の刷り込みまでされている、と言ってよいと思いますし、私と同世代で観た事が無い、と言う人はほとんどいないと思います、ただ、それが大塚さんの仕事だとは気がついていないだけだと思います。

大塚康夫  (1931.7.11-2021.3.15)

私が最も見ている大塚さんの作品と言えば、間違いなく「カリオストロの城」です。

幼い頃に刷り込まれているので、どうしてもワクワクしか感じません。よく考えると本当におかしなストーリィなんですが、それを越えて、動きの面白さ、音楽の素晴らしさ、演技の妙があって、何度でも観てしまいます。


全然ジャンルは違いますけれど、偉大、と言う意味では同じですし、また地上が味気ない世界になったと思います。

「オネーギン」を、パリ・オペラ座 東京公演 で、観ました

2020年3月10日 (火) 11:16

ジョン・クランコ 振付   パリ・オペラ座

シュツットガルトバレエ団のジョン・クランコが振付した名作ですが、最近パリ・オペラ座のレパートリィにも入ったようです。そういえばノーブルの代名詞マニュエル・ルグリがアデュー公演で最期に踊ったのも「オネーギン」でしたね。私も昔にシュツットガルト・バレエの東京公演を観に行きました(の感想は こちら )けれど、その時のオネーギンを演じたエヴァン・マッキーの素晴らしさは、決してパリ・オペラ座のエトワールに勝るとも劣らない輝きがありました。

今回の主役オネーギンを演じるには、日本人に大人気!マチュー・ガニオさんです、もちろんエトワール(パリ・オペラ座の最高位のダンサー)ですし、そして私個人が思う日本人にとっての人気の理由は、2世である、という事だと思ってます。つまり、お父様であるデニス・ガニオがこれまた素晴らしいダンサーで、もちろんパリ・オペラ座のエトワールだったことに加えて、お母様はドミニク・カルフーニです。私の中で今までで1番面白かった、興味深かった、心動かされたのが、ローラン・プティ振付 『失われた時を求めて』で、その中でも、デニス・ガニオとドミニク・カルフーニが出演している版が最高傑作だと思っています。その舞台はつまりマチューにとっての父と母が出演しているわけです。ですので、大変期待しているわけですが、なんとなく、マチューさんは、すごく優しくて、坊ちゃん、な感じがします。その辺が日本人に好かれているのかも、とも思う訳ですが、何といってもパリ・オペラ座のエトワール。それはパリ・オペラ座の期待も大きいでしょうし、2世の方の大変さを想像すると、尊敬に値します。でも私はお父様のデニス・ガニオが好きなんですけれど。それに2世とか関係なくて、バレエの表現、舞台の上で何をしたか?が全ての世界だと思います。(蛇足の蛇足ですが、2世が好きなのってそこに物語が入ってくるからで、しかも血脈という物語は大変強い作用がありますよね、日本人ってこういうの好きなんだと思います。)

恥ずかしながらオネーギンの小説を読んだ事が無いので、話しのあらすじしか分からないのですが、やはり主役オネーギンの心の動きが、その機微がテーマになっていると思います。そういう意味で、男性が主役のバレエ。とても珍しいと思います、普通女性が主役ですから、ジゼルにしても、白鳥にしても、眠りにしても。それでも、だからこそ、の面白さがあると思います。オネーギンのヒロインであるタチアーナはあくまでオネーギンという軸に影響を与える人物でしかない、とも言えるキャラクターです。今回はアマンディーヌ・アルビッソンさんが踊られました。

アマンディーヌさんは私はあまり良い印象を持っていなかったんですけれど、そしてそれは、やや大柄な、という印象だけだからなんですが、踊りは大変美しかったですし、大変大きい空間を支配する感じ、ありました。まるで舞台が狭く感じるかのような、という事です。もっと陽気な、キトリとかだとどうなんだろう?と想像してしまいます。タチアーナとしては、やや大柄、と思いましたけれど、とても良かったです。もちろん好みとしては、もう少し小柄な方であれば、最後の腕と反対に顔を向けて「Get Out」の鋭さが出たように思いますけれど、その辺は好みの問題だと思います。

もちろんマチューさんの雰囲気、オーラは、どちらかと言えば、王子向きだと思います。王子という事は結婚前のナイーブさを内包しているからこその、ダメな選択を選んでしまうからこそ、物語が動く、という大変重要かつ少し抜けている、でも美しい、という難しい注文に答えられるキャラクター、そうはいないと思います。そういう意味ではマチューの王子の説得力は極めて高いと思います。が、オネーギンとなると、1幕では都会の紳士が都会にも飽きて田舎に来てはみたものの、もっと飽きている、なんなら全てに飽きて、虚無さえ感じている若い男を表現しつつ、3幕では、ついに、初めて、心の底から手に入れたい、と思えたのは既婚者でありかつて自分が何とも思わなかったからこそ手紙を目の前で破いて捨てる行為までして去った女性タチアーナであった、という不幸、というか自業自得ではありますけれど、しかし、頽廃した男性であるオネーギンにとってはこの順序でなければ欲しえなかった理由にも配慮がなされた演出でもあり、大変難しい役どころが求められます。

1幕のオネーギンの冷たさ、すべてに飽き飽きしている熱の少なさには、マチューの今までの雰囲気とは異なる、大人の感じ、あったと思います。しかし、3幕でギャップを感じるほどでは無かった、と感じました。1幕と3幕のギャップこそ、オネーギンのオネーギン性なるものの中枢だと思っているので。あくまでマチューが演じているオネーギン、という感じがするのです。これは役者さんでも同じですが、どんな役を演じていても、その人に見えるという役者よりも、様々な役を演じ分ける事が出来る役者を「表現のある」と形容する事と一緒だと思うのです。それでもマチューさんは素晴らしかったです、少しよろける感じを受けたのも、コンディションのせいかも知れませんし、私の思い過ごしかも、とも思いましたし。

公演の最後、カーテンコールで何度もたくさんの拍手を浴びたあと、何度目かの幕が上がってびっくりしたのは、ダンサーや指揮者だけでなく、私は初めて、関係者が私服で舞台袖から出てきて観客席に手を振る、という場面に出会いました。とても暖かな対応だったと思います!そして私服のドロテ・ジルベールさんが観られたのは嬉しかった!彼女の輝きが、例え今では少し陰りがみられたとしても、かつての、あの特別な、神に愛されたかのような、笑顔と踊りには、いつまでも称賛すべき価値がある、と思います。マニュエル・ルグリのスーパーバレエ・レッスンで見せた、まだエトワールになる前の、ロメオとジュリエットの演技の凄さは驚嘆としか言えなかったです。そして相手役はエルベ・モロー!個人的にはかなり好みの人選です!

最後に、コロナウィルスの影響で、舞台芸術は多大なる損害を受けていると思います。政府からは不要不急の外出や不特定多数の集会を自粛要請のある中ではありますが、不要不急とは人によって違う事も理解出来ます。それぞれの判断も重要だと思います。また、ライブハウスに音楽を聴きに行った方が、さも、ライブハウスで、感染した、かのような報道がありますけれど、それを証明するには、その方の行動、その方の近くを通った、同じ公共交通機関を使った人全員が、もっとはっきり言えば確定診断をしないと言えないと思います。恐らく既に多数の無自覚の感染者がいると思われますから。冷静に、そしてそれぞれの判断で、それぞれの行動をすべきです。私は公演を行ってくれたパリ・オペラ座に、NBS(日本舞台芸術振興会)に感謝したいです。

久しぶりに、

2018年7月20日 (金) 09:17

チケットをいただいたので、観てきました。

井上バレエ団 ピーター・ファーマー美術 『白鳥の湖』全幕 関 直人振付

全幕の白鳥ですから、大変有名というか、バレエ作品の中で1番有名と言ってよいかと思います。

私は14日に観に行きました。

まず、ジークフリートを演じた清水さんが凄く良かったです。王子の風格やオーラが感じられ、しかもとても明るい佇まいを身にまとっていて、大変好感持ちました。どうしてだか(身長とか身体のキレでしょうか?)オーチャードホールで熊川さんが演出した『パッシング・ヴォイス』を踊られた堀内元さんを思い出しました。とても基本に忠実で。奇をてらった事はしない、淡々とした踊りであったので、より高貴な雰囲気を醸し出していて、素晴らしかったと感じました。正直ダンスの部分はそもそも少ないのですが、マイムの部分にも気品があって、これがノーブルというものなのでしょうか?好みとして、好きです。

オデットは源さん。プロポーションは素晴らしいものがあり、見た目映えます。ですが、こんな事を全く踊れない観客に言われたくないでしょうけれど、やはりプロはお金を取っているので、あえて、批判的な事を話してしまいますが、少々本気度が足りない、と感じました。執念といいますか、どうしてもコレを表現したい!という想いがダンスからは感じられなかったです。なにかちぐはぐな印象で、それなのに、顔の表情だけは強いのでより印象がアンバランスになってしまいます。それでも、2幕のアダージョの後、とても盛り上がる部分での足の動き(アントルッシャカトルって言うらしいです、その程度の素人の意見です)は良かった。もちろんこういうオデットが好みの人が居ても良いと思います。でも私の好みでは無かった・・・身体が硬くて空間を大きく使えていないのも・・・

オディールの田中さんは個人的には良かったと思います。少なくともオデットよりは説得力がありました。でも出来たらもう少し妖艶さ、オデットには無くてオディールにはある色香があっても良かったように感じました。ピルエットと呼ばれる回転モノはかなり良いのでしょうけれど、全体として小ぶりな印象なんですね、空間を大きく使って欲しかったです。

で、このオデット、オディールに絡むロットバルトの説得力は結構ありました!マイムの手のひらの使い方、印象的な指の開き方、など、マイムの説得力はこの舞台の中で1番輝いていたと思います。衣装も化粧も良かったけれど、目の力がさらに良かったです。

で、もう一言書いてしまうと、ジークフリードの演技が、オデット、オディールに完全に合わせに行ってあげてる、のがもったいないと思うんです。少し降りてきてくれていて、そうじゃなく、それぞれ高みを見せて欲しい、と思ってしまったんですね。

ちょっとだけ、脱線すると、というか本当に好みの話しになりますけど、かつての井上バレエのプリマであった藤井 直子さんの踊りは素晴らしかったと思っています。決してプロポーションが飛び抜けて素晴らしいわけでは無く、ピルエットもそれほど切れが凄いわけでもなく(いや、主役級だと、という感じです、もちろんプロポーションもピルエットも凄いんですけど)、それでもなお、存在感と佇まい、その上での藤井直子さんでしか出せない個性を感じる事が出来ました。言葉にすると非常に陳腐ですが、チャーミングで浮遊感のある、人間離れした地に足のついてない感覚がありました。これってそう簡単には醸し出せない何かだと思います。藤井さんでしか見られないからこそ、その個性をまた観に行きたくなるんだと思います。海外のダンサー含めても、ちろん生で観れたわけではないけれど、中でも1番好き、と言えるのはやはり藤井さんだと思います。エトワールに上がる前のドロテ・ジルベールも好きなベクトルにいますけど、最近は変わってしまったなぁとも思います。ダンサーの首藤さんがおっしゃってましたが、バレエは若さの爆発、みたいなニュアンスの話しをしていましたが、確かにその通りな部分もあると思います。技巧的に上達しても、パッションは落ちてくる事ありますし。

でも結局のところ、個性が足りないという意味で今回のオデットとオディールは残念だった。

しかし、群舞の、コール・ドの素晴らしさは特別に良かったと思います。照明の効果を含めて、の評価ですけど、本当に素晴らしく幻想的でしたし、群舞でしか出せない何かが確実にあって、私には完全に主役を食っていたと思います。2羽の上手の髪の毛のややブラウンな方、4羽の1番上手側の方は見ていて訴えかけるモノを感じました。群舞の中でも目立たず、それでいて2羽や4羽の時に個性を感じさせるのはなかなk難しいと思います。照明も美術を引き立たせる演出で素晴らしかったです。

古典芸能って細部の解釈の、狭いが故の面白さ、が特徴だと思います。落語とも似たものを感じます。その細部にこそ、解釈の僅かなゆらぎの中で、この演出が見せたかった何か、に説得力や強さがあると、その舞台を観た人にとって、永遠とも言える刻印を押されるのに等しい体験になると思います。そういう体験を求めている人、案外多いと思うんですけど、どんなんでしょうね。

今度はもう少し違った、例えばマシュー・ボーンの白鳥を観てみたくなりました。

「魔笛」モーリス・ベジャール バレエ団 を観ました

2017年11月27日 (月) 14:25

没後10年になるのかと思うと早いですね、振付士モーリス・ベジャールさんのバレエ「魔笛」を観てきました。

「魔笛」を最初に知ったのは映画「アマデウス」を見た時だったと思います。オペラは全然見た事が無い前半生でしたので。その映画で出てくるのは有名なパパゲーノのシーンでした。コミカルな感じなのかな?と感じていましたが、なかなか壮大な、とても複雑でいかようにも取りようのある、懐の深い、未完成だから持つ想像の許される部分と、音楽としての完成された素晴らしさがある不思議な舞台だと思います。繰り返して聞いていても、ずっと繰り返して聞けてしまう曲だと思います。曲そのもので言えば、やはり序曲が最高ですし、フィナーレのフィナーレ感あふれるのも凄いです。

で、オペラの作品をバレエにしているのですが、セリフも挟まれる、割合普通のオペラに近い形でのバレエ作品でした。ベジャールの作品ですから、もっと抽象的な演出になっているのかと思っていたのですが、そうではなく、ベジャール色の弱い、音楽に忠実な幕モノ舞台芸術だと思います。

そもそもモーリス・ベジャールという振付士の偉大さ、独特さ、そしてアニキとさえ呼べる強烈なカリスマ性を考えると、かなりモーツアル色の強い作品だと思います。まぁベジャールに関して話しを始めると私ごときでは言及を憚れる人物だと思います。一般的に名前が轟いている事がその人の価値を決めるわけではない事は当然としても、もっと名前だ知られて良い人間であり、振付士としての偉大さだけでなく、その言葉にも哲学者のような重み(父親が哲学者ですし)を感じる事が出来ます。私は全然詳しくないのであまり何も言えないのですが、本当に少し知るだけでもその山の高さを想像できるくらい、スゴイです。たとえば、ですが、ベートーベンの交響曲第9番をバレエ作品にしたことがあるのですが、インタビューに答える形で、この交響曲第9番のテーマは?と聞かれて一言「人類皆兄弟」と答えられる強さと説得力があります。その交響曲第9番も素晴らしい作品でしたけれど。(そういえば年末にベジャールの振付した交響曲9番の映画「ダンシング・ベートーベン」があるので楽しみ!)

主役はもちろんタミーノなんだと思いますが、そこはやはりバレエ作品ですので、セリフを読む役として弁者という役が創作されています。この弁者の見た目が非常にベジャールに寄せている感じがしました。ベジャールが語り掛けてくるように見えるのです。序曲がかかる中五芒星の中にたたずむ弁者はまるで、現代の聴衆に向かって新たなバレエ作品として「魔笛」を語るベジャールを印象付けるかのような演出でした。今作の良さは非常にたくさんありますけれど、ライティングは中でも非常に良い仕事だと思います。

タミーノを演じるガブリエル・アレナス・ルイスの丹精な顔立ち、佇まい、身のこなし、王子にしか見えないです。まさに主人公顔、主人公体つき、いわゆる高貴さを醸し出していて、素晴らしかったです。誰かに似ているんですが、肉体的には首藤康之さんでしょうか?もしくはデニス・ガニオをもう少し華奢ではないんですが、現代的に絞った感じといえば伝わるでしょうか?まさに主役を演じるに値する方でした。
パミーナを演じるカテリーナ・シャルキナの肉体美も相当です。もちろん衣装も非常に美しくソリッドな見栄えなんですが、素晴らしかったです。パミーナから印象すると私個人的には少し芯の強さが過ぎる感じも受けましたが、多少気になるくらいでした。

モノスタナトス役の方は非常にアグレッシブ且つ技巧的な方でピルエットの切れ味が鋭く、まるで残像が見えるようです。オペラでは割合コミカルな歌声な方、いわゆる道化のような役どころのように、音楽からは感じられていたのですが、このベジャール版では非常に動きのあるキャラクターになっていました。見せ場多いと思います。

そして今回1番強い印象に残り、場面に出てくるだけで緊張のトーンを変える事が出来た人物、ザラストロ役のジュリアン・ファブロー!ものすごかったです!1幕の登場シーンはまさに圧巻でして、個人的な意見ではありますが、ザラストロと言えば、ダークで重い印象を勝手に持っていましたが、衣装も金色ですし、その肉体美が恐ろしいまでに重厚。それでいてザラストロの存在感が凄いです。振付の細かな事はワカラナイのですが、重心を低く、それでいて高貴な振る舞いを感じさせ、その細部には日本的な動きもかなり感じられました。今回の演者の中ではどうしても舞台に立っているだけで、彼こそが中心であることを、受け手の目線が自然に集まってしまうのが当然、という雰囲気に溢れていました。

全体的に舞台装置も非常に凝った形になっていまして、上下2段に舞台が分かれています。そして上部は狭いのですが、そこに激しい踊りではなく、人間の身体を使ったある種の象徴を、神々の視点かのような造形美を、陰影を上手く使って表し、下段の現実世界と思われる部分で主な演者が踊りにて表現し、そこに上下で相関関係、補完関係を映し出されると、非常に神々しく見えます。3人が一対になっての上下での連動に、そこに男女の逆転があったり、様々な趣向を凝らしていて驚かされます。

振付については私はその意味、連続性、等分からない事だらけなんですが、ベジャールという個性、その影響を感じられました。

バレエが好きな方に、魔笛が好きな方に、ベジャールが好きな方にオススメ致します。

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