2025年2月14日 (金) 09:23
向田邦子脚本 NHK U-NEXT
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 4/13
阿修羅のごとくは3話で概ね完結していると思います。ただ、恐らく、非常に人気が高く、続編を作りたくなったんだと思います。
その上で、向田邦子が書いた作品、と捉えた方が良い気がします。あくまで母と次女である巻子の関係性、姉妹との関係性の上で、女性の生きにくさ、恐らくモラルとか道徳とか規範の中での葛藤を描いた傑作。
ただキャラクターは生まれたので、キャラクターのその後を観たくなったんだと思います。それに向田さんも書きたかったのか?要望を受けてなのか?はよく分からないのですが。
前回のドラマ化から1年後に放送されていますし、およそ1年後の話し。
そして、やはり主役は巻子である八千草薫さん。
丸谷才一の何の小説だったか?完全に失念して今ったのですが、ラストに妻が軽犯罪を犯すのですが、ほぼ同じ展開で始まります。
このPartⅡは恐らく、この時代の女性のメインストリームである専業主婦の次女である巻子、そして亡くなって不在となった母との関係性と、対比して娘を演じている荻野目慶子との関係性が軸なんだと思います。
もちろん四姉妹も出て来ますし、それなりの比重は増えているのですが、最も強いテーマは娘との関係性で、この時代で専業主婦であれば、離婚という手段が非常に、非常に取りにくい状態での葛藤を描き、さらにここに娘が気付いていく事で、女性であるというだけで受け入れ難い我慢を強いられている状況を描いているのですが、それが再生産される可能性を示唆していて、確かにキツい。
それと、このオリジナル版でしかないセリフも多くて、特に娘との会話で非常に重要な、徹夜仕事の夫に服を届ける場面の重みが全く違うのが印象的。もちろんカットされている理由も、現代のコンプライアンスというか常識から明らかに逸脱しているわけで、理解はできますけれど、それって結局、昭和を描けていない、お為ごかしな訳で、Netflix是枝版の評価が下がる一方です・・・
代役となった巻子の夫露口茂がすごく良くて、恐らく本木さんはこっちを参考にしているのがよく分かった気がします。
そしていつも思うのだが、それが真実だとしても、違ったとしても、私の目から見ると、気分によって行動が変わり、その後先をあまり考慮していない、ように見えるとか書いてしまうところが全人類の半分を敵に回してしまいやすい私の特徴・・・確かに相手に共感する力、感応力が強くそれが軸なんでしょうけれど、相談じゃなく話を聞いてほしいのだというのは理解できるけれど、それを相手がどう考えリアクションするかは相手の自由、というような考え方が私に取ってはフェアであると思うので、フラットな状態が無いというのは、なかなか大変だろうとは思います。行動に発生する責任とか義務とかまでは考えてないというか、行動こそに意味があるのように感じます。あなたと私の関係性は特別、というのがそもそもの出発点なんでしょうか?この辺は全然ワカラナイ。
岸辺一徳が出てくるのも、唐突な気もしますけれど、まぁそういうこともあるんでしょう。
相変わらず父の佐分利信の重み、コメディ要素ゼロ。この辺が素晴らしい。父周囲の演出もカメラもアップを多用しているのですが、それだけでなくローアングルも多くて余計に小津安二郎味が強い。
昭和50年代、私も生きてましたけれど、この時代はまだ戦前の記憶があり、南無阿弥陀仏の威力もちゃんとあるのが、たった40年前のドラマなんですけれど、感覚が全く違いますね。
蛇足、とまでは思わないけれど、ちょっとメロドラマ感は増してるし、予告の煽りも不要だとは思いますが、もし再ドラマ化するのであれば、やはり舞台は現代、令和にしないといけなかったと思います。
向田邦子作品に興味のある方、Netflix版や森田芳光映画版を観た方にオススメします。
2025年2月10日 (月) 08:54
向田邦子脚本 NHK U-NEXT
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 4/12
私はたまたま、U-NEXTさんのマイリストを少し消化しようと思っていました。お正月の書籍の読みはじめに何を読むか?というのに高橋源一郎さんが「追憶の1989年」で谷崎潤一郎の細雪挙げていたのを思い出して、四姉妹モノだし、森田芳光監督とはあまり相性が良くないけれど観ておくか、となった訳です。ところが観終わったとたんにNetflixで是枝監督が「阿修羅のごとく」を再ドラマ化の予告が始まっていて、次いで是枝板のNetflixの「阿修羅のごとく」を観ました。
全体的にキャストはどう頑張っても古い作品の方々の方が良いですし(例外もあります)、脚本が良いのは理解しますけれど、あまり今あえて製作する意図というか、なんで?が難しいと思います。特にキャストされた方々は、良いと思ってくれる人少ないと思いますし、直接比べられてしまい、不幸な感覚があります。それに森田芳光版は映画なので、かなりコンパクトに要約されているのですが、その脚本の編集が、ちょっとびっくりするほど良かったので、これを観ればまぁいいか、と思っていました。
しかし師匠(書籍、文化関係の師匠 本当に尊敬できる)にお会いした際この話をしたら、是非NHKのオリジナル版を観た方が良いですよ、とお話ししていただき、手を出したのですが・・・
これを観てしまうと(まだ3話 第1シーズン完の所)映画版、是枝版の評価が・・・かなり下がりました・・・演出は、私からするとガハハと笑う変なおじさんのイメージでしか無かった和田勉。
まず、放送が1979年放送で昭和54年を扱っています、つまり当時の現代の話しなんです。あくまでテレビドラマとしての現代を描いているわけです。だから脚本を生かすには、もっと言うと是枝監督も森田芳光監督も、やるなら向田邦子さんにお願いして現代というかその時の話しにしないといけなかったと思います。しかし当たり前だけれど、亡くなられているので無理。だとすれば、手を出さない方が無難だったと思います。
四姉妹モノ、確かにそうですが前提として、次女である里見巻子(NHK:八千草薫 森田版:黒木瞳 是枝版:尾野真千子)が主人公で軸であり、その巻子に3人の姉妹がいるから四姉妹を描かれているように感じます。だから、これは巻子の話しなんです。もっと言えば巻子の中にいる阿修羅の話し。しかし阿修羅はどんな女の人にも存在するし、四姉妹にもそれぞれ、という話し。
ここが、全然全く違い過ぎる。
特に森田版の黒木さんの存在感の薄さ、というか軽さは大問題だと思います。そう言えばジェーン・オースティンの「高慢と偏見」でも次女が主役。そこにフォーカスしないと、その上コメディ色を強くしたら、阿修羅と関係なくなっちゃう。非常に重要なポイントだと思います。
森田版は、コメディ方向にポイントをずらしていて、もちろんだからこそ、是枝版も同様にコメディ色も入れていますし主役を四姉妹に割り振っていますから、今でも観れるし、今の観客に向けて味を、うすく、うすく、うすく、しています。だから阿修羅がなんなのかイマヒトツ感じられません、男が茶化している様にすら感じられる第1シーズン3話の幕切れに、見える。
オリジナル版は全く違います、めちゃくちゃに、シリアス。生活感を漂わせ、次女巻子から見た生活や生きていく業を描いているからこそ、阿修羅なんですよね・・・まさかここまで違うとは・・・だって脚本が同じなので、演出の、監督の、力量が分かってしまう・・・残酷。
それと、昭和って凄く汚かったんですよ、街も、電車の中とか路地も、禁煙スペースなんてものは無く、電車の中でもタバコが吸えたくらいの違いがあります。車両に灰皿があったんですよ、駅のプラットホームにも、すべからくタバコをどこでも据えるのが常識だったんです。そして衛生的にもどうなのか?今からだと考えられないくらい、汚かったわけです・・・そこが映画版も是枝版も、全く感じられなくて、凄く嘘っぽく、軽くて、まぁ今の人には向いているかも。でも昭和をある程度過ごした人なら、それは、嘘と言うモノだと思いますし、リアルじゃない。
第1話女正月で四姉妹が初めてそろうシーンに、脱ぎ捨てられた四姉妹の靴がクローズアップされる短いカットのシーンがあるのですが、どんな靴を履いているか?どう脱いで置いてあるのか?だけで、もう既に四姉妹の性格の違いや趣味趣向まで読み取れる感覚があります、上手い。もちろん後の作品の方が良い部分も無くはないけれど、圧倒的に現代性、その当時の事を描くわけで、空気感が当たり前ですけれど全然出せてない。なんとか衣装や小物を揃えたところで、使い慣れていない感覚がどうしても残る。
そして、なにより文楽を女家族で観に行く事も、現代では代わりすら見つからないでしょう。私だって生で見た事無いので、偉そうには言えないのですが、庶民の楽しみの中にまだ、東京の国立に一戸建てを構える家族の楽しみとして、文楽という選択肢があった、という描写は重いし、これ歌舞伎とはまた違った感覚ですね。
さらに、私はこれはあてがきなのでは?と思う瞬間が非常に多かったです、特に次女の巻子についてはどうしようもなく八千草薫さんの、少し控えめではあるし、三女いしだあゆみほど父性に対する幻想はないものの、こうであって欲しいという感覚は残っている既婚者。そういう部分が非常にデリケートに描かれていて、素晴らしかった。
3話で完結していて、ちゃんと「完」ってつけてる。もちろん残りも観ますけれど、本当に素晴らしかった。
あと、このテーマのトルコの行進曲を選んだの、誰!頭から離れないです、明治十勝スライスチーズのCMのセリフもリフレインされてしまう・・・
それと音楽の使い方で言うと、どうしても知らない曲がクライマックスにかかるのですが、これを一生懸命調べたら、gates of babylon という曲で、レインボーというグループのハードロックなんですけれど、ギターの人だけ知ってて、リッチー・ブラックモアでした・・・選曲のセンス!誰?
父の佐分利のコミカルを排した真剣さの上にラストの悲哀があるわけで、この辺なんかもう小津安二郎作品みたい。長女のちゃっかり感ですら、オリジナル版ではコメディになってない。三女に至ってはもっと父性幻想に飲み込まれているお嬢さんであり、ヒステリックに演じるのはちょっと違うけれど安易な着地点としては理解出来る所がまた解釈が浅い。四女なんて子供なんですよね、でも成人していて男と同棲もしているし上の姉たちへの反抗心が動機、という子供なんです。この辺も田舎っぽい人連れてきてもダメだし、かといってそつなく演じるわけでもないのが難しい。2話で風吹ジュンさんは恐らく玄関のシーンでは本当に転んでいますし、そういう部分が映し出されていて、ちょっと演出家として和田勉恐るべし。
唯一のコメディリリーフが勝又さんである宇崎竜童なんでしょうけれど、だからと言って他の皆にコメディ要素を入れたら、相対的に勝又はもっとコメディ寄りになってしまい、不器用さが重要でコンプレックスがあるのを、変な人、コミュニケーション能力の低い人、のように見えてしまう弊害の方が強いと思います。特に森田版の中村獅童さんは、監督や演出の意図を組んで演じているのでしょうけれど、ちょっと可哀想。次女の夫は緒形拳さんで、まぁそつがないのではありますが、この後代役になるらしく、その方も楽しみ。
次女巻子は結婚して専業主婦でこの時代のメインストリームに居るけれど、上の世代には既に寡婦になったモデルケースを垣間見、未婚で父性幻想の強い若さのある三女と、逆に人気があるけれど無鉄砲な女で未婚で同棲をしている四女との対比として、中心に座るべき人物。
ここに、母が存在するのが、肝だと思います。おそらく当時の女性にとって母の存在はもっと大きかったし関係性も強かったと思います。もっと言うと女性のモデルケースが主婦1つしか無かった頃の、だからこその心の中の阿修羅が存在するわけで、いろいろ納得のNHKオリジナル版の第1シーズンでした。
阿修羅のごとく を観た人すべてにオススメします。
2025年2月7日 (金) 09:39
アリ・アッバシ監督 キノフィルムズ 新宿キノシネマ
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 4/11
私にとって2024年のアメリカ大統領選挙の結果はなかなか衝撃的でした。なんでこんな人が存在するのか?果ては大統領職に就いて、その後本当に様々な軋轢と下品さを振りまきながら、議事堂襲撃まで(私から見ると)扇動しているにも拘らず(だから今恩赦を与えているわけで・・・)再度、大統領選に出馬して当選してしまう(もっとも、民主党の候補者選びの紆余曲折も考えると・・・)という事が起こるなんてびっくりしたわけです。
それでも、トランプ支持者の方々の意見に、分からないわけではなく、確かに虐げられてきた方々からすると、心底応援しているのでしょうけれど、ドナルド・トランプという人の幼稚性や居丈高で自承認欲求の高さや下品さを考えても、いや、だからこそ応援支持しているのだという事が理解出来るようになってきました。民主的な選挙を経た結果で、民主主義的なリーダーになった事は、今のところ選挙の不正の話しは聴きませんし、受け入れるべきなのでしょう。
という事は、ビデオジャーナリスト神保哲夫氏の言うパクス・アメリカーナの終焉を観ているのだという事も理解しました(世界の警察としての役割を降りて、自国中心主義、モンロー主義的な志向に至った)。選挙に勝つという事でその後の製作が決まるわけで、投票権のある人の過半数が、自国中心的な振る舞いを強く望んだ、と言えるし急激な変化を望んでいるし、ひいてはドナルド・トランプという人格を肯定している訳です、結果として。
でも、選挙での投票行動を鑑みるに、というか選挙権のある人々の中に、俺もドナルド・トランプみたいに、欲望に忠実でいたい、なんならマナーなんてなくていい、という層が一定数いるかも知れないし、そもそもずっと前からそうだ、と言う感じが、凄く恐ろしいです。特に調べたり、一貫性すら求めずにいられる姿勢が恐ろしい、と思ったわけです。だって関係性すら生まれない、王様の様な特権を民衆が望んでいるように見えるし、ヒトラー的な感情論や現在は否定されている優性論を持ち出さなくても同じ事が出来ている、ように見えるからです。
伝わるか分からない上に私の言語のスキルに問題だと思うんですけれど、男尊女卑のバックラッシュにも思えます。どの辺から男尊女卑的な志向があったのか?は諸説あると思いますけれど、女性側からしたらずっとだよ、とも言えますし、テクノロジーが進化しても、感情に流される、感情を完全に排するわけには行かず、ホモサピエンスが賢くなるしかないのですけれど、テクノロジーが発達した事で、浅薄で薄っぺらな状態でも生きていける為なのではないか?とか考えたり全然思考がまとまらない状態です・・・
今では常識となった民主主義や人権概念だってフランス革命で生まれるまで無かったし、その思想の基盤のトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーと積み上げて来た状態の中でもルソーの一般意思があるのかないのかワカラナイ状態で希求する事だとすると、確かにコテンラジオでいう宗教チックな部分もあるわけです。その宗教チックなものに支えられている民主主義や人権概念だって根付くのに時間かかったので、加速主義的に考えたら、もうどうなるか見ていく、という事なんでしょうけれど・・・ドナルド・トランプが登場して支持されているという歴史はあるわけで、本当にどうなるんでしょうね・・・
なので、ドナルド・トランプの創り方、という部分に興味があったので観ました。
20代のドナルド・トランプ(セバスチャン・スタン)はお気に入りの会員制高級クラブで弁護士であるロイ・コーン(ジェレミー・ストロング)の目にとまり・・・というのが冒頭です。
近代アメリカ史に詳しくない(というか何も知らないに等しいのが私)ので知らなかったのですが、ロイ・コーンという人物が恐ろしすぎるのですが、この人物がドナルド・トランプを育てたとも取れる映画です。割合事実に即しているようです・・・だから余計に恐ろしいのですが・・・
怪物が、もっと手に負えない怪物を作った話し。
実在するロイ・コーンという人物が、非常に気になります。こういう人物が生まれるのって、とても偏った考え方があると思うのですが、中には徹底して、徹底的に、自己中心的な考えとその為には法を犯す事も厭わない人が出てきますよね・・・だけれどこの人物が映画で描かれているのがおおよそ本当だとして、これは今までに見てきたタイプの中でも突出して抜き出た存在だと思います。善悪の判断ではなく、利益、もしくは欲望に対してのみ忠実であるので、違法行為や自己矛盾性も厭わない(ように見える)人物が法の知識を仕事にしている恐ろしさとでも申しましょうか。しかし、この人物でも、愛国である事にだけは、辛うじて、信仰の様な側面があります。
そして悪性だとしても、突き抜けた存在に、人は魅了される事もあります。正直、徹底的に行う、という事に関しては私もかなり魅力に見えました。ここまでだと清々しい気持ちにさえなります。
ただ、私はロイ・コーンという人物がただ単に、因果応報と言うモノでは?としか思えなかったですし、その因果が、まわりまわって全人類に影響を与えたとなると、映画「炎628」のラストを思い出してしまいました。無かった事には出来ませんし。それに病気の事はドナルド・トランプと関係ないです。
それから、とある有名人というかアーティストが出てくるのですが、こんなところに出入りしてたのか!という驚きがありました・・・
普通この映画の中の若い頃のドナルド・トランプのように自己肥大が過ぎる人物ってそう大成しないと思うのですが、稀有な例なのでは?とは思います。自己矛盾が無く、徹底的に攻撃。非を認めないという人物に徳を見出せる人は少ないでしょうから。
映画はある地点で終わるのですが、その続きは現実世界で続いています。だからこそ恐ろしい。ホモサピエンスって考えたりするから進化してきたのですけれど、そんな事は知らない俺を尊敬し続けろ、という人物に魅了された国が何処に向かうのか?気になります。それに、確かにパクス・アメリカーナのコストは膨大でしょうけれど、始めたのも自己都合なら辞める時も自己都合なんで、より落差が大きいですし・・・
そして、ドナルド・トランプを演じたセバスチャン・スタンが、おバカなチャーミングさがある状態から、完全に私の知る、ドナルド・トランプになっていく様が、恐ろしいほどに似ています・・・どうしたらこんなに似せられるのか????恐ろしいくらいで、ドキュメンタリーっぽい画質のおかげもあると思いますけれど、凄い。
そしてロイ・コーンを演じたジェレミー・ストロングも素晴らしく恐ろしいです。この人映画内で唯一、字幕でドナルド・トランプにアムール的な言葉を使うシーンがあるのですが、もしかしたら本心だったのかも。友情って、金で買えないモノ。当たり前だけれど、そして知ってもいるのだろうけれど、このロイ・キーンはやり方があり、そして希求していたように思われる。
が、彼が作り上げた怪物は、それさえ不要としているわけで、まぁ、ね・・・本当に「炎628」のラストを連想させる・・・
パクス・アメリカーナの終焉に生きる人で、その元凶の一因を見て見たい人にオススメします。
2025年2月4日 (火) 09:16
メーガン・パーク監督 AmazonMGMStudios Amazonprime
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 3/10
2024年の様々な人の映画のベストを聞いていると、これは知らなかった!という作品に出合えます。その中で「ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから」と似ている映画、と紹介されていたのが今作。早速観て見ました。
まず、初めて観る監督、そしてカナダの映画。一見、恋愛的映画にも見えますけれど、私は自己決定の話し、こういう事になっている、に抗う話しと理解しました。そう言う意味では似ていると言われている「ハーフ・オブ・イット」とは毛色は違うけれど似た感触の映画。
で、割合ストレートに「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」に対する非常に強いシンパシーとリスペクトがあり、私は未見なので、これも見ようかな?と思いました。そう言えば若草物語なわけで、阿修羅のごとくとも繋がってる。
大きな湖の中を小さなボートが進んでいき、3名の女性たちは・・・というのが冒頭です。
主人公であるエリオットは両親、2人の弟と共にカナダの湖のそばで農場を営む一家の娘なのですが、トロントに入学が決まっているエリート。しかしLGBTQでもあり、なかなかショッキングな冒頭ですけれど、まぁ宣伝でもネタバレしていて。
大学入学を控えた数日前から始まるのですが、マジックマッシュルームをキメて幻覚を観るのですが、それが39歳になった自分なのです。タイトルはこの39歳の私の事をMyOldAssと呼んでいるのです(正確には39歳の私が名付けている)。で、恐らく何かの暗喩か慣用句かスラングと思われ、なんかもう少し分かりやすい表記か訳が欲しい・・・
で、その39歳の私から、いろいろ忠告を受けるのですが、あくまで幻覚の、トリップの話しかと思いきや、というストーリーです。
エリオット役のメイジー・ステラの若さ、その若さは失われたかも知れないが39歳の私が目にする故郷の湖の美しさの連動に、懐かしさも絡ませているので、より尊さと儚さを覚えます。自然の描写もこの物語にマッチしている。
そもそも、性的嗜好なんて人それぞれだと思いますし、なんなら性別に限らないからこそ、ホモサピエンスの歴史では、想像以上に様々な対象に対して、宗教的戒律や道徳的な禁忌、もしくは悪魔的な示唆を含めて強制的にやめさせようとしている、という事は欲望を持つ人が一定数いる事を示しています。なんなら古代ギリシアだとほとんどの男性がバイセクシュアルでそれがマジョリティでしたし、うちの国のちょっと前わずか200年前だと普通に衆道があったり、まぁいろいろですけれど、その事を決めるのは自分である、という事に意味があると思います。
かなり特殊の状況の特殊な話しで、しかも設定がファンタジーなんですけれど、想定外の秘密が打ち明けられる瞬間が素晴らしかった。
ま、そうは言っても、若い頃の、衝動を止めるのは難しい事ですし、それが若さであり甘さなんだと思います。あと、やはり頭に虫が沸いていると冷静な判断が出来ないですからね。
決して悪くないです、主演も周囲のキャラクター、その演者も良かった。
自己決定について考えてみたい人にオススメします。