井の頭歯科

「テルマ&ルイーズ」を観ました

2023年4月25日 (火) 09:45

 

 

リドリー・スコット監督   MGM   U-NEXT

凄く有名で結末も知ってしまい、だからこそ観た事が無かったです。それに星里もちる先生の傑作漫画「りびんぐゲーム」の中で、凄く印象的な使われ方をしていたのもあり、そうか、そういう風にも印象を残せる映画なんだな、と思って避けてしまっていました。それと、リドリー・スコット監督作品を追いかけてみようかな、と思ったので。好きな作品もあるけれど、好きになれない作品もある現代の巨匠、ヒットメイカーでもありますし、「最後の決闘裁判」を観たいというのもあります、「ハウス・オブ・グッチ」には全く興味は湧かないんですけれど・・・

朝のダイナーで忙しくウェイトレスとして働くルイーズ(スーザン・サランドン)は親友で専業主婦のテルマ(ジーナ・デイヴィス)に電話をかけて一緒に過ごす休暇に今日出かける準備の状況を聞くのですが・・・というのが冒頭です。

最高に素晴らしく、2023年の今観ても色あせる事のない(とは言えだからこそヤバいとも言えるのですが)傑作。ちょっとリドリー・スコットが撮ったとは思えない題材なんですけれど、恐らく、脚本が素晴らしい作品。当時、どのような評価を受けたのか気になりました。

ロードムービーでバディ映画の傑作でしょうし、そこに当時の常識、が映し出されていて、今観ても結構ヘヴィーな状況ですし、それが2023年に観ても、ある種今も変わってない、という部分においては恐ろしく感じさせるとも言えるその時の常識、が映し出された作品。

常識はテクノロジーによっても、感覚によっても、様々な要素で変わるものですけれど、その様が如実に、強く印象付けられている作品。そう思って製作されていないからこそ、余計に際立つとも言えます。

これは自立とか、責任とか、個人を扱った作品でもありますし、法律とも道徳とも関連のある尊厳の問題を、事件とも言う事が出来ない、恐らくもっと年代をさかのぼれば、事件ですらなかった可能性がある「きっかけ」から、同様の過去の出来事の経験者が、それこそ掃いて捨てられてきた加害者側によく言われる『飲酒』を基に被害者側にパワーがあった場合の顛末を見せてくれます。

この「きっかけ」をエンジンにストーリィは展開していくのですが、脚本は本当に見事。個人の尊厳を扱った映画です。

しかしリドリー・スコット監督が撮る気になったと言う意味でも、そして、ラストの舞台と言う意味でも、これは西部劇なのでは?とも思ってしまいました・・・私は結構西部劇が好きじゃないのに、この映画は大好きです。

脚本のカーリー・クーリの事は忘れないようにしよう。

 

 

バディ映画が好きな方に、オススメ致します、名作って言われてるけれど、確かに名作だし、リドリー・スコット監督作品の中で1番好きな作品になりました。

 

 

 

 

アテンション・プリーズ!

 

 

ココからネタバレありの感想です、未見の方はご注意下さいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレあり、としては、現実には酒が入った状況だから、酒の入った状況に相手も乗り気だった、なんならその場に同席する事に異を唱えなかった、もっと言うなら抵抗や拒否がある事を楽しむ人間がいたり、その手のファンタジー込みで、ジャンルですらある世界です。

 

 

 

 

その時、被害者側がパワーを持っていたら、単純に銃兵器を持っていたら、という真っ当に対等性の話しじゃなく、こっちにもテクノロジーがあれば可能な絶対的な上下関係で生命の維持を遮断出来る可能性を 相手だけ が持っていたら?という事だと思います。

 

 

 

 

これは2021年公開エメラルド・フェネル監督作品「プロミシング・ヤング・ウーマン」的な映画との分岐点でもあると思います。 なんなら、男女とは別に「▲」という男性よりもさらに身体が巨大で筋肉量でも知能でも敵わない絶対的な身体的な差がある性別の性的嗜好が人間の男性で、無法的に男性を性的に搾取する存在がいたら、と仮定する事でもいいです。ジョン・ロールズの無知のヴェールみたいな話とも言えます。

 

 

 

 

ルイーズは恐らく、過去に同様の経験があった、もしくはその場に同席しつつ、法治の限界、常識の限界を、テキサスで経験したことがある、という事だと思います。つまり、プロミシング・ヤング・ウーマンのように、時間の経過と後悔や慚愧の念を抱えた後に、過去を想起させて、あなたが同じ立場に立たされたら、という趣旨の復讐をするのではなく、その場で、その相手に、絶対的な暴力を行使する、という事態を経験する話しになっています。

 

 

 

 

これは、とても示唆深いです。だって、当時でしょうが、いつの時代でも、ハンドガンが発明されて以降であれば、武器を持つ事で関係的に優位に立てる事実を示しています。 銃社会の歴史がほぼほぼ自国の歴史と言って良いアメリカ社会であれば、当然考えられそうですけれど、女性たちが銃を持つ事で個人の尊厳を守る、という話しにはなてないと思います。もしかすると、存在したのかも知れません。

 

 

 

 

ただ、あまりに圧倒的ですし、致命傷になりかねないわけで、なかなか加減が難しいです。それに、きっとそこまでの決定権を持つ事に、躊躇もあったし、ヘヴィーでもあったと思います。 でも、ルイーズは、過去の経験上、このままでは法による保護は望めないし、どうやら常習的に繰り返しているであろう存在を、私刑として、許す事が出来なかったのでしょう、理性を脇に置いたとも言える、衝動に任せた、とも言える。

 

 

 

 

きっとほとんどの逆の関係で言い訳として述べられる事の多い言葉と同じように。

 

 

 

 

死よりも凌辱の法治内での罪の軽重を話しているのではなく、復讐権を国家権力に取り上げられている話しだと思います。

 

 

 

 

ルイーズの行動を衝動的、とか酒の席とか、いろいろ批判も出来るだろうけれど、共感も出来る。そして、ここに共感出来ると、この後の警察官、そしてタンクローリーの男への行動にも共感してしまうと思います。

 

 

 

 

テルマが言うように、これは個人の生き方、人生をハンドリングする旅なんですよね。その代り、所謂「世間」とか常識とかからは離れますし、常識的や道徳的倫理的な加護からの離脱になるでしょう。

 

 

 

 

それでも、これまで人間ではありながら、「普通」の生活を送っていたにも拘らず、実際の所自分の意思を、刷り込みによる常識を壊してまで操縦してこようとしていなかった、という事実を描いています。

 

 

 

 

多分、テルマも気づいてはいたけれど、それを、はしたない、とか社会的な常識、刷り込みによって、押さえつけていた。 ただ、夫は父親ではないし、当然、成人した人間として、自分の行動には責任が伴うし、その代り常識に従わなくとも法を犯さないで生活する事も出来る。そして、もちろん夫婦関係を継続する為には犠牲が伴うし、なんならその相手を自分で決めた。

 

 

 

 

実際の所、テルマは自分で決めた結果、家庭に縛る欲求を持つ男性と結婚したし、ルイーズからしてみたら、明らかに最初から不信感があったであろう(シルバーバレットでの、後に実力を行使する事になる相手に対しても、同様)事は示唆されているけれど、でもテルマの「ダメになる権利」をその決定を認めている。力尽くで、あるいは言葉巧みに誘導する事が出来たとしても、していない。でも、忠告はする。

 

 

 

 

ルイーズはテルマを尊重している。

 

 

 

 

テルマはいわゆる持てる人であるし、基本的に良い人間だろうけれど、疑い、批評性が無く、疑問を持たない。なにしろ順応しているし、客観性もそんなにあるように見えない。この世界である意味成長しないで順応してきた。だから、ある意味公平ではない事に気付きもしないし、それは、恐らく、イヤな話しだけれど、女性であって容姿が良いからであろう事が示唆されている。

 

 

 

 

その中でもテルマはルイーズを信頼してきた。 関係性の上で相手がダメになる事であっても尊重して、齟齬にならない事が、友情だとするなら、2人の関係は友情だと思う。 そんな2人が旅立つ瞬間の高揚感、日常から離れるシークエンスの中で、2人の背景を語るのも上手いし、最初にルイーズがテルマに保護者と婚姻関係の言葉を使っているのも上手い。

 

 

 

 

ルイーズはテルマとは違って、いや、もしかすると同じだったかもしれないけれど、テキサスでの過去があり、その経験から学んだのかも知れない。 テルマはルイーズとは違って、初めての経験から、解放、そして個人を自らの手で握る事への実感を初めて味わったからこそ、より突き抜けた存在になったのかも知れない。

 

 

 

 

タンクローリーの男に向かって言う、あなたの姉妹、妻だったら、というセリフがある事の重み、ただ、謝る、という事さえ出来ない『男』に対して、確かにやり過ぎだし、代償を支払わなければならないし、それが死んだからとて無かった事にはならない。

 

 

 

 

ハーヴェイ・カイテル扮する刑事が言う「痛めつけられっぱなしの女なんだぞ」と。確かにその通りだけれど、そのすべてを、タンクローリーの男や、場末のナンパしか出来ない男に被せるわけにはいかない。

 

 

 

 

でも、この映画、虚構の中でそれを行う事によって、もしかすると観客の中では何かが変わるかも知れない。

 

 

 

 

最初は、リドリー・スコット監督がなんで撮ったのか分からなかったけれど、タンクローリーの男との対決、そしてラストを観て、ああ、西部劇だったんだ、決闘の話しなんだと思って勝手に頷けた。

 

 

 

 

凄い脚本だった。ラストもいろいろあったみたいだけど、個人的には良かった。

 

 

 

 

出てくる役者は皆素晴らしく、特にルイーズを演じたスーザン・サランドンは野球を扱った映画の中で私の中のベスト1である「さよならゲーム」のヒロインだし、今作でも本当に魅力的だった。ある種の常識人を演じられていて、説得力もあり、イイ男と付き合ってるオトナの女性にちゃんと見える。

 

 

 

 

ジーナ・デイヴィスは最も変化する役目を負った難しい役どころですが、完璧。朝の爆発頭でやってきた完全にキマってる目の演技とか本当にヤバい人にしか見えないし、凄い。あの焦点のあってない目、アダム・マッケイ監督作品「マネー・ショート」の中に出てくるトレーダーを演じた際に、義眼である事を演じたクリスチャン・ベールの目の演技を思い出しました。それに、この人のハンドリングに、カタストロフィがあるわけで、この人の生き様みたいなものが輝かないと映画も輝かないはずなんだけれど、見事に輝いてる。本当に素晴らしい演技だった。

 

 

 

 

ハーヴェイ・カイテルは納得の演技で、観客の視点を担う役目で普通だったら語り手になりうる存在ですし、何と言っても捜査しているようで、本心から助けたいと願っている。それだけ様々な場面を観てきたのでしょうし、日常に違和感を覚えてもいるでしょう。でも今作ではその上で傍観者になるしかない立場。その葛藤を上手く表現していて、素晴らしい。イイ奴、グッドガイですよね。

 

 

 

 

JDを演じる若き日のブラッド・ピット!カッコイイ!そしておバカ。このおが付くか、付かないかが重要。つまり愛嬌がある。美味しい役どころですが、流石若い時もイイ。コーエン兄弟の監督作品「バーン・アフター・リーディング」のチャド役の若い頃みたい。

 

 

 

 

さらにテルマの夫ダリルをクリストファー・マクドナルドが演じているのですが、典型的なトロフィーワイフ思想で、これが普通だったら嫌だなぁ、という所をコミカルに演じていて、いです。空回りっぷりといばりんぼっぷりがいい。 いつも思う、昭和が懐かしい、という人に、いやいや、昭和のキツイところもいっぱいありましたよ、と言いたくなる感じと同じように、この映画からなんにも変わってない部分を感じると、なかなかにヘヴィー。

 

 

 

 

リドリー・スコット監督作品、いろいろ観てみようと思ってます。

「街とその不確かな壁」を読みました

2023年4月21日 (金) 09:49
村上春樹著   新潮社
凄く、久しぶりに村上春樹をわざわざ読もうと思ったのは、まず私にとっての彼の最高傑作は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だからであり、その中に出てくる街の事を、新作のタイトルが指していると思えたからです。どう考えても、彼の著作を読んだ人なら、そう思うと思います。
また、そこまで熱心な読者ではなく、熱心だったのは高校から大学生くらい(今から30年くらい前・・・)で、まぁあり大抵に言って、文体にやられちゃってたからです、酔っぱらってるのと同じです、自己陶酔みたいなもので、自己憐憫とも言えるし、あまり人にそういう部分を見せるものじゃないと、いまなら思います。まぁ若かったんでしょう。
熱が冷めると、なんだ、という感じですが、酔っぱらってるので、その時は分からない状態になってるわけです。
また、ジョン・アーヴィングとの対談を何処かの雑誌でやってましたけれど、その当時も、アーヴィングが言う「読者にもっと読ませて欲しい」と思わせなければダメだという趣旨の発言に同意もしていたと思います。それとは別の何処かで、高橋源一郎は、ラストを決めてそこへ感動させるやり方を批判、というよりは下品という趣旨の発言をしていたのを覚えていますし、全く同感です。とは言え「ガープの世界」は好きなんですけれど。その後「未亡人の一年」という主要登場人物がほぼすべて作家、という作品を読んでからは、もう手を出す事はあるまい、と思いました。作家が作家とは何か?とか考えちゃうと袋小路に入っていく、とか言ってたのはスティーブン・キングだったような・・・
読む前は、レイモンド・カーヴァ―の作品のように、そしてそれに影響を受けている村上春樹作品のように、短編を基にした長編、というような事なのかな?と思いました。それを源一郎は、物語が新たな結末を求めている、というような事を言ってたけど、比較的最近(と言ってもけ10年以上前ですけど)カーヴァ―関連の本で、実は編集者にかなりカット編集されたものが短編で、それを快く思わなかったカーヴァ―が中編化したものが、後から出てくる、という事だったようです。でも、どっちが好きか?と言われると、確かに短編の方が出来が良く見えます。編集者って大切。
それでも、短編ではなく長編の書き換えってどういう事なのかと思えば、雑誌に掲載はしたけれど書籍化していない作品の長編化で、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」になっているのですが、その雑誌掲載作品を基にした長編化です、と作者があとがきで語っています。
あとがきはあっても良いけど、作品について作者が何かを付け足すのはどうなんだろう、とは思います。無粋って奴ですし、そうご本人も書き記している。
でも、そういう事のようです。
で、本作と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は基になった作品は同じなわけです。なので、どうなのか?と思ったのですが・・・
基本作品のネタバレはしません、というか、村上春樹作品にネタバレも何もないんですけれど。
まず、好きな人には新たな未読の作品が出来たわけで、良かったですね!
読みやすくて、何処か不可思議で、この主人公は私だ!(もしくはこの作品を一番理解しているのは私だ)と思わせてくれるのはなかなか楽しいモノですし、それが自己陶酔でも自己憐憫でも、誰にも言わなければ読書体験は基本1人でするものですし、隠れてやってれば何も問題ない。
それに私だってそれなりに楽しんでは読みましたし。しかもこうやってここで文章化して出してるわけで自己顕示欲求があるのも事実。そういう自己憐憫とも言えるし、自己承認とも言える。
また、読まないで何となく村上春樹作品が嫌いな人は、こっちじゃなく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでみたら良いと思います、多分合わない人には全部読めないと思いますけれど。もちろん無理して読むべき作品なんて無いし、みんな好きな作品を読めばよい。でも批判は読んでからの方が良いと思います、確かに目に触るけれどね。扱いが大きすぎるし、文豪とは思わないけれど、息の長い作家活動をしているわけで、それもここまで他国に翻訳されている作家なので、こういうのが好きな人は世界にもたくさんいるんだと思います。そう言う意味でニュースになる同時代の作家ではある、好むと好まざるとに関わらず(←凄く村上春樹さんっぽく言ってみた)。
でも海外に翻訳させている作品の中には処女作「風の歌を聞け」(架空の作家を使ったスケッチ風の中編 とは言え、凄く新鮮な、消毒されたかのような、英文から翻訳しなおしたかのような文体が眩しく見えたのも事実)と続く「1973年のピンボール」は翻訳を許していないんですよね。そう言う所も凄く、障る感覚があります。これと似ているのはオーチャードホールの25周年ガラ公演 伝説の一夜 の総合監修をした熊川さんが、自分以外のダンサーの振付を全て、自分で行いながらも、自身の踊る作品の振付はローラン・プティの「アルルの女」にしたのと似ていると感じました、それと興行側から「伝説の一夜」って言うのはどういう感覚なんだろう、とは思う。
それに何かの全集だかの刊行に際して、編集者が勝手に「1973年のピンボール」をその中に入れたのは確かに悪いし、作者はどの作品を何処に載せるかの権限は持っているんですけれど、それでも、という一件は、凄く記憶に残ってる。そういう人なんですよね。
斉藤美奈子さんも言ってたけど、そもそもW村上って表現がおかしかったし、名字なんて本質に何も関係ないし、村上龍と村上春樹を比べても意味ないと思う、対談本も出してますけれどね、この2人。
ここ最近の作品は読んでないけれど、ええ、みんなが知ってる、いつもの村上春樹作品世界です。
ですが、私はなんでこの作品を書いたんだろう?が全然納得出来ませんでした。
明らかに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の方が作品として、レベルが高いし、読ませるし、ある種の自己否定の二重性みたいな事を扱ってて、伏線も良いと思いますし、表記も良いです。レベルが下がって感じましたし、なんか、無駄に、本当に無駄に長い・・・
ある意味今までもそうなんですけれど、主人公にとって都合の良い人間しか出てこない・・・それは同じなんだけれど、今回はさらに、主人公の為に作られた、都合の良い人間が複数出てきて、なんだかなぁ、と思います。本当にどうしちゃったんだろう。
編集者は何かもう少し、意見を出せなかったんだろうか?
今度こそ、もういいや、となってしまった。

多分、自分の為に出したんだよね・・・あとがきでもそう感じる。

 

アテンションプリーズ!

あまり、どうかな、とも思いますが、自分の記録の為に、一応残しておこうと思って。ここからは割合ネタバレを含むので、未読の方はご遠慮ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ネタバレありの感想としては・・・

あとがき、で凄く言い訳めいてホルヘ・ルイス・ボルヘスを引用して『1人の作家が一生のうちに真摯に語る事が出来る物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られたモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に置き換えていくだけなのだ』とおっしゃっています。
うん、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」を引用している訳ですし、今までの作品群もそうであったように、ファンタジックな部分を、ファンタジーではなく、あなた(読者)にとっても精神世界のリアルな(意味が反しているのは理解していますが)世界として、マジックリアリズムというジャンルだと思ってね、忖度してね、と言われているように感じる。
もし本当に、マジックリアリズム的に読んで欲しいのであれば、小説というスタイルの文章の中で、マジックリアリズムとは表記しないで、そう読ませて欲しいし、それが小説家の仕事のような気がするし、初期作品では出来てた気もするんですよね、ある種の村上春樹ワールドとして。でも今作でそれが成立しているかどうか?凄く微妙・・・
モチーフも、凄く勝手に、これまでの作品を読んできた読者なら、想像出来る。逆に言うと想像出来なかった、つまり新たなキャラクターたちが全然魅力的じゃない上に、主人公にとって物凄くご都合主義的なキャラクターになってしまってて、醒める。
主人公はいつもの通り名無しの、読者の誰もが自分だと思い込みやすく出来てるいつもの主人公ですし、16歳の少女は精神的な問題の抱え方や純粋に歩くの含めてノルウェイの直子でしょうし、コーヒーショップの店員の新婚旅行については回転木馬のデッドヒートの嘔吐のモチーフでしょうし、真四角の部屋は多分井戸の底なんでしょうし、とか細々とそういうのがたくさんあるから、ある種補完出来るのは強みでもあるんでしょうけれど、逆に、唐突なキャラクター(とは言え知らない作品もかなりあるから個人的な印象の話しですけれど)子易、イエロー・サブマリンの少年という非常に飲み込みにくいキャラクターの違和感が強い。
自分の名前すら表記がされないのに、子易さん、図書館の添田さんは名字の表記があるのに、イエロー・サブマリンの少年はM※※表記って、まぁ何かしらの意味はあるのかも知れないけれど、全然汲み取れないし、今作はそのような、汲み取れない事、が多いと感じる読者からすると、その汲み取れない事についてはどちらが本体かワカラナイし入れ替わる事もあるし確定しない事を『忖度』してくれ、これが私の考える物語であり、そう言うモノだと受け入れてくれ、というメッセージがそこかしこにあって、凄く、都合がいい。この辺がこの作品であり村上春樹作品の弱点でもあると思います。
それに言いたかないですけれど、物語の結末やカタストロフィと言う意味で今作は何も決着しないし、自分から何か?犠牲になったわけでもなく、周囲の人が様々に助けてくれるわけです。本当に困ってても、夢が助けてくれる・・・でも、16歳の少女に何が起こったのか?全然分からないし、決着はつかないし、16歳の女の子が街を作り上げ、そこに自分も加担しているのに、その責任を負っていない上、さらなる他者であるイエローサブマリンの少年(なげぇ、名前があれば・・・)に責任を被せているし、出てくるのであれば、こんなに重要な役目で出てくるなら、2章の頭の方でももう少し含みを持たせて登場させておかないと唐突過ぎないか?とか、子易さんだけ魂的に幽霊になれる理由は?とか都合よく消滅しちゃうのはどうして?とか墓参りってそういうキャラクター今までいたっけ?そんな事するようなキャラクターに違和感すら感じましたし、突然いなくなってしまった女性を想うのはいいとして、40歳までいくと、ちょっと純粋性じゃなく執着な感じがしてしまったり、と今作は全然乗れない上にとにかく無駄に長いと感じました・・・
でも今に始まった事じゃなく、初期作品の中に出てくる、フォルクスワーゲンのラジエーターをうんぬん、という表記があって、現実世界ではフォルクスワーゲンにはラジエーターは無い、という読者からの指摘を受けて、作者は、この小説の中ではラジエーターがあると思ってください、そういう小説内世界だと思ってください、という弁明をしていたのと同じだと思う。
それに、表記を変えてなんとか新しくしようとしているのに、逆に分かりにくくなってる箇所も多くて、一角獣が単角獣というぼやけた表記になり、門番は門衛となり抽象性が増しているようですし、退役老人は大佐の方が想像しやすいし、割合難しいキャラクターであった発電所の男は存在を消され、壁を超える鳥という存在もなくなり、ギミック的にも下がってるという他ない。
子易さん、主人公にあまりに都合の良いキャラクターで、それはイエロー・サブマリンの人も同じなんですけれど、それでも、もう少しそのキャラクターの説得力みたいなものがあったと思います、五反田くんだって、羊男だってもう少し深みがあった。それが衒いなく、主人公にとっての救いを与えてくれるキャラクターでしかないのは興醒めというか、劣化というか、老化。
明らかにレベルが下がった作品を、今どうして出すのかなぁ、編集者は仕事してたのかなぁ、大御所になると編集さんも意見が言えなくなるでしょうし、出版不況も極まれりという時代に名前だけでも売れる作家の新作となると『忖度』があったのかなぁ。
個人的には、老いた、そして老いを認められなくなったのだろうな、という読後感でいっぱいです。作家は長生きして良作を出す人もいるけれど、そうでもない作家もいるでしょうし。

「妖星ゴラス」を観ました

2023年4月18日 (火) 09:08

本多猪四郎監督    東宝   U-NEXT

やっと観れました。なかなか見る機会が無かったのですが。

私が気になってたのは当時の科学的な感覚と、池部良の存在感の2つなんですけれど、どちらも満足しました。

もちろん特撮監督は円谷さんで、面白いですし、群像劇としても、当時の人々の感覚が理解出来て面白かったです。

おおらかで基本的に社会や世界に対する感情が非常に幼い、という風にも取れますし、素直とも言える。

しかし2回ほどある挿入歌と言いますか、謳われる曲の曲調のなんと日本的なことか・・・この感覚が私にもあるので、牧歌的にならざる得ないのかも、あ、自分の演奏の話しですけど。

それと、昭和残侠伝で最もカッコ良かったのは私には高倉健さんじゃなくて、私には池部良さんです、カッコイイ。種類は違うけれど本作もカッコ良かったです。

しかし牧歌的ってそれはそれでいい世界ですよねぇ・・・全然住みたくないけど。

それにしても、アイツはなんの為に出てきたのか・・・悲しい存在だよなぁ・・・

 

当時の日本を知りたい方に、オススメ致します。

「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」を観ました

2023年4月11日 (火) 09:19

 

ダニエル・シャイナート監督   A24    U-NEXT

ラジオの映画紹介でいつも面白いモノをオススメして頂ける村山章さんがオススメしていたので観ました。すっごく不思議な作品です。

 

イイ年齢であろうおそらく30代の現代アメリカに住む3人組の男たちが、ガレージでバンドの練習をしています。よなよなバンド練習だけでなく、同性同士のバカ騒ぎもしているようなのですが・・・というのが冒頭です。

 

サスペンスでは無い映画だと思います。何故?どうして?という見方も出来なくはないです。でもそれだとこの映画は多分つまらない作品に見えると思います。

 

 

もっと能動的に、これどういう事?というよりも、なんでこんな映画を作ったのか?という部分に思考を巡らせると、凄く理解出来る映画だと思います。

 

とは言え、みんな自分の見たいように、しか映画を観ないと思います。でも、他の人がどう見たのかな?なんでそう考えたのかな?どの部分から違うのかな?とかを人と話すのは大変面白いです。出来れば自分と考え方が全然違うけれど、でも、お互いが信頼関係が成り立っていて、映画の好みが信頼できる友人がいると、本当に世界が広がりますよね。多分それでも、私は同性の人の方が圧倒的に話が早いので、面白い人が多いと思いますし、それは男性でも女性でも同じで、同性同士の方が気を使わなくて良い部分が多いからだと思います。よりはっきり相手への気遣いがある種強要される2023年現在の方がより感じられると思います。だから女子会なるモノに名前がついたんだと思います。もちろん男子会なんてないけれど、太古の昔から同性同士の話しの場はあったでしょう。でも、異性、もしくは異性愛傾向がある(なんだかどんどん表記が難しくなるなぁ、昔はただ単にストレートって表現すれば良かったけど、今は性的自認と言う意味でシスジェンダーで性的嗜好と言う意味でヘテロセクシュアルという言い方が必要になってきています)人との話し合いではある種の気遣いは必要ですし、それがある種の困難や細やかな配慮に自分の能力をある程度割かれるとしても、基本的には良い世界になっている途中なんだと思えるので良いですし、相手がそれで気分よくなるのであれば必要だと思いますし、そう言う意味では男性は常に下駄を履かせてもらっているので、より気を付けなくてはいけないと思います。私もそう努力はしつつ、それでも、気の置けない同性同士の会話は非常に心地よいモノです。ジェーン・スーさんも何処かで書いてたけれど、目減りしない資産価値は女性同士の友情だけ、という趣旨の言葉だったと記憶していますけれど、それ男性でも同じだと思うし、だから映画カサブランカでも、フィリップ・マーロウが活躍するハードボイルドの世界でも、支持されると思うし人気もありますよね。もちろんジェーン・スーさんだってOver The Sunという同性同士の場を作ってると思います、正直私はそこに触るのは少し聞いてやめたけど。

閑話休題

じゃこの映画の何を面白い、興味深いと思ったか?と言えば、人間関係と、そして男性性の未熟さ、に尽きると思います。バカです、それも底抜けにバカです。でも、そういう生き物で、そして、そういう風に育てられてるとも言える。そしてある程度長い歴史として2000年くらい続いている可能性のある文化でもあると思います。さらに言えばおそらく女性が20歳近辺で大人(もちろん流行イイ人はもっと早く、その傾向もあるでしょうし、遅い人は遅いのですが)、常識が通じるようになる、あるいはならざるを得ない。なりたくなくても生存する為にならざるを得なかったのだとすると思われるのに対して、男性は総じて40歳くらいで大人という常識を学ぶと思います。そして一定数、老人になっても大人にならない人もいるのが、男性です。そういう世界に生きている。

 

 

もちろん女性も全く違う意味で、物凄いバカに見える瞬間があると思います、もちろん言葉にもしないし、また世界の半分を敵に回したけど・・・

でも、だからこそ、少しづつだけれど変わっていくだろうし、それはそれでいいのだけれど、映画は2020年代の現在を描いていて、しかも、こういう事はしないけれど、ほとんどの男性は自覚があるであろうけれど、不意に訪れた悪ふざけの結果、の言い訳を考えると、この映画の主人公の事を私は全く笑えなかったです。

映画のような事は実人生では起こさない自信があるし、それが普通。だが、このような深刻ではない程度であっても、男性なら等しく、皆、驚くばかりに、無能で浅薄で悪あがきをする。そういう場面を女性ならきっと目にしているはず。そこできっと我に返ると思います、なんでこんな人間と暮らして(あるいは同じ職場を、同じ空間で、その他なんでも)きたんだろうか?と。

映画の中にも散々描かれてきましたけれど(ハング・オーバーシリーズはまさにその典型ですよね?)、そのバカさ加減の中ではトップクラスの映画ですし、その後を淡々と描いているのも秀逸。

そして、誰しもがコーエン兄弟の「ファーゴ」を思い描くと思いますけれど、目指した方向や成り立ちが違う映画だと思います。

あまり見た事が無い種類の映画、そういう点で評価できる。

ネタバレにはならないから、一応批判的な部分も記しておきますけれど、そうは言っても、この映画の中では警察署長が言う、憐み、の言葉を考えると、映画のアイディアの基になったとされる事件については、監督は否定しておくべきだったと思います。英語版wikiには記載されてるし、そこはあくまで想像で行った、と言っておくべきだった。調べる人は調べちゃうでしょうし、そうするとある種の被害が出てしまう、それが故人であっても親族がいる可能性がある。そして映画の中の警察署長の言葉の重みがあった事が、薄っぺらな軽薄さに変わってしまうから。もったいなかった。

しかし、ヒドイタイトルだよなぁ・・・それだけでネタバレと言っても良い気がする。

「聖者たちの食卓」を観ました

2023年4月4日 (火) 08:44

 

フィリップ・ウィチュス監督    UPLINK   AmazonPrime

友人のKくんのオススメだったので。

とあるインドにある寺院の1日を追ったドキュメンタリー映画です。

とにかく、観ていただくしかないのですが、物凄い数の人間が映し出されています。そして、その自院での食事の準備、食事風景、後片付け、を写しているだけです。ナレーションも無ければ、BGMすらありません。

つまり、フレデリック・ワイズマン方式、観察映画と言っているのは想田和弘さんですけれど、どう考えてもワイズマン方式だと個人的には思います。

とても圧巻な映像で、映像美も素晴らしく、さらにそこに人間の生活中でも『食事』に焦点が当てられています。生きる為には食べないといけない、という仏教用語で言う「業」の話しでもあります。

説明はされませんし、ラストに字幕が少しあるだけです、あとは観る事で、しかも観客である我々視聴者側から能動的に意味を見つけなければならない作品。

この、能動的に、という部分が、高度資本主義社会でどれくらい生き残っていけるのか?を不安に感じる事があります・・・高度資本主義社会って、負荷のかかる事の利便性を上げる事でそこに価値を見出し、金の流動性を高める事だと思われるからです・・・

 

 

だから、これは太古の昔から言われている事で、そしてだから大丈夫だと、思いたいのですが、これだけテクノロジーが発達していても、人間という有限の姿形や思考回路の変わらなさを考えると、この先は大丈夫なのか心配になりますが、いわゆる「今の若い人たちは・・・」的な事です。説教は歳を取ったらやめると心に決めていたので、これは説教とかではないと思いたいのに、読む人には説教に聞こえるだろうな、とも思いますけれど、それでも、高度に発達した資本主義社会の中で、いわゆるオジサンである私が50年ばかり生きてきて、自分が体験した事と比べて、2020年代の子供さん方の、何もかもが受動的、それも保護者や教育機関までもが、事前に何もかもを準備する事が当たり前になっている傾向を見ると、恐ろしくなります。もちろん私より前の戦争を経験している人から見れば、私にも同じような過保護さを感じたでしょうし、重々理解しているつもりなんですけれど、それ以上の撃たれ弱さや、何もかもに受動的な感覚が恐ろしく見えたりします。ただの器具でしょうけれど、ね。

 

 

だから、映画鑑賞よりも読書の方が能動性が高く、ある種尊い作業。でも文章を読む、能動的に受け取る、という訓練をしていないと、なかなか身につかないですし、趣味が読書の人の割合はずっと減り続けているのではないか?と言っていたのは斎藤美奈子さんだったような・・・

 

話しがそれてしまいました・・・

 

映像美も素晴らしい作品ですし、これだけの数の人間を見ると、それだけで壮観です。

本当に不思議な映画。

フレデリック・ワイズマンの映画が好きな方にオススメ致します。

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