井の頭歯科

「孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人」を読みました

2020年8月4日 (火) 08:57

追分日出子著     文芸春秋
東京バレエ団と言えば、私にとってはベジャールを踊るバレエ団で男性ソリストが多い、というくらいの認識しか無いのですが、その東京バレエ団を立ち上げた人物、佐々木忠次氏の評伝です。
1932年生まれで観劇が高じて舞台監督の道を歩むのですが、わけあってオペラやバレエの世界に入り、その中で東京バレエ団を主催する事になります。
著者の追分さんの視点が入ってる、佐々木忠次氏の評伝、という事ですから、どこまで実像に近いのか?は不明な点もありますけれど、大変活動的で、そして1900年代に活躍したバレエ・リュスというバレエ団、というよりも、今で言えば革新的パフォーマンスを行う芸術家集団を率いたディアギレフを追い求めた人物だと思います。興行主とか、プロデューサー、と言った感じに私は受け止めましたが、本人と追分さんはインプレサリオと表記しています。
日本人には、私は個人的にプロデューサー器質の人が少ないのではないか?と感じます。例えば、プロ野球選手になりたい、という人と比べたら、プロ野球の監督になりたい、と言う人は少ないと感じる、という事です。プレイイングマネージャーはいても、野球のプロになれなくても作戦を立てたい、と感じて職業を目指すにしても、プロ野球選手にならなければ監督にはなれない、と刷り込まれている感じがします。
フットボールですと、選手未経験者(プロとして)の監督は海外にはいますけれど、日本にはいないように思う、という事です。書籍について言えば、作者になりたい人が圧倒的で、書籍を完成させる技術者になりたい、編集者になりたい、プロの読み手(書評者)になりたい、という人の割合が少ない、と思うのです。
そんな中、舞台に魅せられた佐々木忠次がいかに海外の一流のオペラ、バレエを日本で公演出来るように努力したのか?を年代的に追える評伝となっています。
東京バレエ団は、その始まりはソビエトと関係性が深く、特に日本のバレエの黎明期であった中で、唯一、プロというか海外のバレエの指導者を持っているバレエ団だったわけで、確かに特異な存在です。
しかも割合黎明期から海外志向があり、そして私はバレエに詳しいわけではありませんけれど、恐らくプロポーション的に、西欧人と比して劣る人が多いと思われる中、群舞の揃い方で魅せるモノであったと思います。ただ、それを本場の舞台に行って公演を行った、という度胸はすさまじいと思います。多分、今で言えばアフリカ系アメリカ人の歌舞伎を見る感覚だと思います。三谷幸喜の舞台「笑いの大学」の例えで言えば「ウィンストン・チャーチルの握った寿司が食べられますか?」という事だと思います。
しかし、海外公演を繰り返し、ヨーロッパの本場から、中でも旬のダンサーやオペラ歌手、指揮者を呼び寄せている、という努力は称賛されるべきだと思いますし、その為の努力、エネルギッシュさ、はちょっと同レベルの人を思い浮かべる事が出来ません。
しかも、海外のバレエ団から、一流のダンサーを紹介するだけでは良くない、これから一流になる人を紹介する事も、ダンサーを育てる事も重要なバレエ団の仕事である、という部分を気付かされて受け入れるのは、大変スゴイ事だと思います。
しかし、私は日本人なので、そもそも文化というモノが日本に根付くのか?とても不安視しています。バレエについても、バレエを大事にしている人よりも、バレエを踊っている自分が好き、に見える人が多いと感じてしまう事があります。
そもそも、一流かどうかを見極める目が日本の観客にあったのか?疑問に感じますし、一流だからこそ、文化的僻地である遠い日本に触れるよりも、現地での活動を優先させる事も重要だったのではないか?とも思ったりします。が、そこに、オリエンタリズムだけではない、佐々木忠次の歓待する心があったからこその、成功があったと思います。
特に、ベジャールは仏教に造詣が深く、しかも父親は哲学者で、本人も哲学的なコリオグラファーですから、日本文化への親和性は高かったと思います。とくに歌舞伎への想いが忠臣蔵へとつながっていき、「THE・KABUKI」は話の筋として大まかに忠臣蔵があり、能も取り入れていて、切腹という、死を自尊心を守るための行為というところまで(私としては袋小路のどん詰まりまで不必要に高めた)突き詰めた行為に、美学を見出したからこそ、三島を題材としたバレエ「M」を作るわけで、ベジャールは、ただのオリエンタリズムを超えた理解があったと思いますけれど、切腹という文化は、特殊だと思いますね。恥の文化、大変私は卑屈な精神の表れに思えます。そこに美を認める事もありますし、ある種の文化でもありますけれど、行き過ぎな気がしますね。これはとても難しい問題を孕んでいるとも思います。
世界の、という接頭語が付くものを、どんなものでも喜ぶ性質のある部分を、一流こそを理解している能力がある、という事とイコールで結ぶのには抵抗がありますけれど、大変珍しいタイプの日本人だと思います。
佐々木忠次氏の業績は素晴らしいものがあり、本物に触れる機会を作っていただいた、と言う意味においても、そしてガラ公演というスタイルでシーズンオフに、東京に有名なダンサーを呼んで行われる世界バレエフェスティバルというアイディアも素晴らしいと思いますし、日本にバレエ文化を根付かせる手段として、有効だと思います。が、何となく、遠藤周作が言う「日本は沼」という表現を思い出さずにはいられません。
黒子として存在する舞台監督から、興行を行う人、プロデューサーとしての足跡を知っておくのは、良い事だと思います。日本にはもっと名プロデューサーが居て欲しいです。どうしても演者になりたがる傾向があるので、演者だけで成功するのは天才だけだと思います。表現する演者をどのように紹介したり、周知させるのか?という意味では、前にご紹介した「ベートーベン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」(の詳しい感想は こちら )のシンドラーは、決して褒められる手段ではありませんけれど、プロデュースと言う意味においては、相当に上手いと思います。

舞台芸術に興味のある方にオススメ致します。

この新型コロナウィルスのある世界で、舞台芸術が生き残って欲しいですし、バレエだけでなく、演劇、音楽、美術鑑賞など、文化への敷居が物理的に高くなる事で、廃れてしまう事を危惧します。こういう時こそ、国が文化を保護しなければならないと思うのに、この日本と言う国は文化に対する理解が浅いのではなく、無いんですよね・・・この東京バレエ団の海外公演の際の、国家からの援助についても、同様ですけれど、だからこそ、この国で文化が廃れてしまわないように、少しでもできる事をするだけです。

最近の漫画2つ

2020年7月28日 (火) 09:17

なかなか時間が無くて、映画館に行くのもなんとなく気が引けますし・・・それと、阿佐ヶ谷ユジクが閉館してしまうらしいので残念です・・・まだ行った事が無かったのに・・・最後の特集がグザヴィエ・ドラン監督で、私はすっごく会わない監督なので(1作だけで判断しましたが、ここまで合わないと流石に観たいという気にすらなりません)残念ながらいかないうちに終わってしまいそうです。

そんな中で最近読んだ漫画で気になったのを2つ。

1つは渡辺ペコさんの「1122」という夫婦の漫画です。かなりセンシティブな内容を扱った30代の夫婦の物語です。

夫はかなりおとなしいタイプのいわゆる装飾系な男子、妻はいわゆる考え方がドライな女子、という夫婦なんですが、性的な嗜好やタイミングが合わなかった事で、妻が公認の婚外恋愛を許容する、というかなり変わった夫婦の話しです。全7巻なんですけれど、このセンシティブな問題について、テーマにしていたのに、残念ながらあまり掘り下げられないで終わってしまったのが残念でした。夫婦の形は、おそらく現代にいたるまで様々な形が存在したと思います。中でも、2020年の日本の状態は、かなり多様化していると思います。だから、当然趣味趣向があう人そのものが少ないので、これからはさらに結婚という夫婦関係を選ぶ人たちは少なくなるでしょうし、少子化はさらに、どこまでも、進むと思います。そんな中のある1ケースとして、確かに問いの立て方は面白いですし、上手いとも思いましたが、これ恐らく結論を決めずに始めているというか、読者に向けて納得いく形にならなかったので、かなり忖度した感じのゴールになっていると思います、そこが残念ですし、さらに、問いとして立てたメインのテーマが掘り下げられる事が無く終わってしまったのが残念です。もっと面白く出来る要素があったと思うのですが、恐らく女性向けの漫画だからこその忖度のような気がしますし、ラストはかなり無理やりな決着で、この後も苦労しそうな主人公たちに見えました。

夫婦の形ですら、私は当人同士の問題だと考えてしまいます。様々な形があって良いと思いますし、そもそも結婚という形態やその様式、家制度が古くなってきているので、なかなか難しい話しになりますけれど、少し前に扱った酒井順子著「家族終了」(の感想は こちら )でも感じましたけれど、全世帯の1/3は、結果自分で単身者を選んでいる、というです。結婚したい、という人もいらっしゃるかと思いますが、出来ていないし、そもおそも1人では出来ない事なので、協調や妥協が必要だと思いますけれど、それをしなくてよいのが単身者ですから、この自由を手放せなくなった、もっと言うとわがままになったので難しいと思いますね。

もう1作は大変感銘を受けた、カレー澤薫著「きみにかわれるまえに」です。

こちらは、いわゆるペット、愛玩動物について綴られた短編漫画です。そして決して絵が上手いとは言えないカレー澤薫先生ですが、内容は恐ろしく深い作品だと思います。ペットを飼った事がある人、悲しい別れを経験した事がある人に、強くオススメ致します。それにこの独特の絵が私は好きなのです。

カレー澤薫先生の絵はそこまで好きじゃない、という方もいらっしゃるとは思いますけれど、この方の文章は、ちょっと見た事が無いレベルで文才があります。その上、その繊細さを隠すための自虐的なセンスも、かなりの高みにあると思います。技術として、凄いと思うのです。

その文章を生かすための漫画だと思います。是非1人でも多くの人に手に取っていただけたら、と思う漫画家が、カレー澤薫先生です。あぶなく、ホモサピエンスと言われる生き物である私の顔という組織の中に認められる視覚をつかさどる部位の浸潤の度合いが高くなって表面張力を覚えた状態になりました。

動物が(人間よりも)好きな方にオススメ致します。

「ベートーベン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」を読みました

2020年6月23日 (火) 09:19

かげはら 史帆     柏書房
tbsラジオのアト6で紹介されていたので手に取りましたが、興奮する内容で、とても面白かったです!!
ベートーベンの何の捏造の話しなのか?と問われる方が多いと思いますが、それを置いておいて、とても近い話しが、ミロシュ・フォアマン監督作品、映画「アマデウス」におけるウォルフガング・アマデウス・モーツアルトとアントニオ・サリエリの話し、と考えて頂ければよいと思います。
つまり、大音楽家であるルードヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェンと、その秘書であったベートヴェン伝記作家のアントン・フェーリックス・シンドラーの関係性を描く、歴史ミステリーです。
私はベートヴェン、と聞けばやはり交響曲第9番が思い浮かびますし、あの天然パーマのような風貌も、思い出されます。大作曲家であり、耳が聞こえなくとも作曲を続ける努力型の秀才、という認識があります。これに対してモーツアルトは、もっと天才性の高い、感性とかセンスとかの持ち主であり、だからこその型破りで、同時代では理解されない先見性を持ち合わせていたと感じます。だから、映画「アマデウス」は持たざる者と持つ者の対比としても、そして、その天才性を理解出来るのが、サリエリだけ、と言う部分に悲劇的な部分があり、面白いと思うのです。
この本では、もう少しこの2者関係が複雑です。
ベートーヴェンはもちろん素晴らしい作曲家ではありますが、その人間性が果たしてどうだったのか?そしてその秘書(というか何でも屋というか、無給の秘書、と呼ばれているそうです)シンドラーの目を通した評伝、という形を採っての関係性の話しなのです。つまりプロデュースの話し、ですね。
ベートヴェンの最晩年の秘書であり、年齢もベートヴェンの25歳下のシンドラーから見たベートヴェン像と実際のベートヴェンとの乖離の話しだと思っていただけたら間違いないと思います。
歴史ミステリーとも取れる話しですが、大事で面白いと感じたのは、動機です。タイトルに捏造と明記されていますので、その点は間違いなくシンドラーに非がある訳です。が、何故シンドラーは捏造を行ったのか?が肝になります。
ここで大変面白い、というか偶然、だと思いますが、ベートーヴェンの耳が悪かった、という事が重要になってくるのです。
ベートヴェンは耳が悪く、音楽さえ聞こえなかった、という事は会話は筆記で行われていたわけです。が、後天性の聾者は、筆記で返す必要がありません、喋れますから。ですので、ベートーヴェンが実際に筆記に使っていたノートは、ベートヴェンが筆記した部分は1つも無くて、ベートヴェンと会話したい人の筆記だけが残るわけです。ベートヴェンが何を話したのか?というファクトを証明する事には全くならないが、誰がベートヴェンと何を話したいと思ったのか?だけが記載されているのがこのノートです。そして、それは音楽に関連する事ばかりではなく、日常会話を含めて残されていて、およそ400冊あった、と言うのです。
この概要を聞いただけで、大変興味を惹かれました。
ベートヴェンは交響曲第5番「運命」はドアをノックする音だ、とは言ってない可能性の話し、です。読んだ人のベートヴェン像が更新される事間違いないですし、私は一気に読んでしまいました。
映画「アマデウス」が好きな方に、オススメ致します。
これ、絶対「映画」にすべきです!タイトルは「ルードヴィッヒ」でもいいですし「シンドラーのルードヴィッヒ」でもいい!というか、ミロシュ・フォアマンは故人となってしまったのですが、ちゃんとした人に映画化して欲しいです!!
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「急に具合が悪くなる」を読みました

2020年6月16日 (火) 08:50

宮野 真生子 磯野 真穂 著       晶文社

とにかく長くなってしまいました・・・なので結論を先に書いておきます、それ以外は読まなくて良い文章です。ですが、私は凄く馬鹿なので、何をどう感じたのか?を文章にしてみないと考えがまとまりません。その過程は、誰にも見せなくてもイイものですが、後で自分で振り返った時に、知るために、また人目に触れる場所に残す、という意味で、身綺麗にしておく意味も含まれています。
名著です、いつか死んでしまうすべての人に読んで意味のある本だと感じました。
中動態、中腰力、ハイデガー、代用医療、必然と偶然、九鬼周造と和辻哲郎、に興味がある方なら、是非。
結論は以上です、以下は蛇足です。
ですが、私は物事を簡単にする事に抵抗があります、簡単にする事でそぎ落とされてしまう中に重要な事がある、と思っています。だから、結果がでるその過程も重要だと思うのと、振り返って自分がどう感じていたのか?を振り返れるようにするために。
この本を知ったきっかけは、凄く個人的には不思議です。この本の著者というか往復書簡のお2人が知り合った顛末に似ている、と読み終わった後で気づかされます。
同業の組合のような歯科医師会で濃密な関係になった辰野先生に紹介して頂いた若手のホープ横山先生、その横山先生に誘われて入会させていただいた「いただきますの会」で知り合った同じ歯科医の鈴木先生、その鈴木先生に誘われて「いただきますの会」でも猫の話題で盛り上がった柴崎さんと向かったとあるライブで知り合った足立先生、その足立先生が紹介されていた本であったので、手に取ったわけです。凄い偶然とも言えますし、普通のおつきあいの結果とも言えますけれど、私には、とても縁を感じます。
つまり、時間的経過としてはそれほどの時間が経過しているわけでもないのに(「いただきますの会」に入会してから僅か2年、直接の紹介者足立先生に至っては僅か6か月!!)、濃密な刺激を受けています。その点が、この本のお2人の関係と似ていると思ったわけです。
著者は、この往復書簡のエースで哲学者・宮野真生子さんと、同じく往復書簡の伴走者で人類学者・磯野真穂さんなのですが、お2人が知り合ってたった5カ月で往復書簡が始まるのです。話題は本当に多岐にわたりますけれど、主に、医療と生死に関わる話しです。
往復書簡のエースである宮野さんは哲学者、そしてがん患者であるのです。より死というものを身近に感じている人です。そもそも哲学を学ぶ人は死に近いと思いますし。そして伴走者の磯野さんは文化人類学者なのですが、大変包容力のある方でして、言葉のプロと言えます。
どちらも言葉を使うプロとしての意識が高く、お互いに相手を知ろう、深めよう、という意気込みが大変に熱く、この2人の言葉による化学変化、精神的煌き、が収められている本です。
タイトルになっている「急に具合が悪くなる」というのは、哲学者でエース宮野さんが実際に主治医から言われた言葉です。その為に、出席しようとしていた仕事を止めるかどうか悩んだ事を、伴走者で人類学者の磯野さんに相談した事で知る事になります。お読みいただくしかないのですが、かなり切迫した状況です。
がん患者さんにも様々なケースがあろうかと思いますが、宮野さんはかなり重篤な状況にあるのですが、このエース宮野さんの、覚悟、言葉でこの状況でも思索するその姿勢に、大変畏敬の念を覚えます。ハイデガーの言う「死はたしかにやってくる。しかし今ではないのだ」からすると、かなり切迫しているにも関わらず、なのにです。ここに大変考えさせられるのです。
私も弱いただの1人に人間として、考えの浅い人間として、いつかやってくるこの状況に、備えていないと、その場の圧力に流されて不本意な結果になるのではないか?と危惧しているからです。そもそも臨機応変が苦手な上に、取り返しのつかない選択になりやすいと思うからです。その準備と備えの為の知識として、この本がどれほど有用であるかが分かります。
医療は人を助ける仕事ですが、この合理に対して、様々な問題が山積していますけれど、その様々な問題を、哲学的に解き明かす事に繋がっていきます。
医療は西洋医学として発展しています。ですから、とても合理的なモノだと思います。だからこそ、インフォームドコンセント、説明と合意が必要な訳で、その選択に、患者さんも関わります。何故なら当たり前ですが、患者さんに無断で、この方法が最も良い、という医療者の独断を許す事に抵抗があるからだと思いますし、自己決定、の一環だからです。
しかし、この自己決定、が本当に自己決定なのか?という事を詳しく考察したのが、國分功一郎著「中動態の世界」だったわけです。その本では、受動、もしくは能動、という二項対立ではない、3つめの中動態という古い言葉についての考察でしたが、「急に具合が悪くなる」では、実際の医療者との会話、確率論の話し、弱い〈運命論〉と強い〈運命論〉の話し、という具体例の話しになっていきます。
運命、という既に決められている、という考え方をどう捉えるのか?についても非常に意見の分かれるモノではありますけれど、こういう場合は厳密に定義が知りたくなりWikipediaによると『人間の遺志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと』と書いてあります。だいたい決まっている、という事ですが、巡り合わせのこと、となると、偶然性を含んでいるのかも知れません。
例えば、この薬を飲む事で○%の人が症状は治まりますが、こういう副作用が出る確率が○%です、という医療の現場では割合よく言われる確率論の事です。
リスクと可能性の話し、例えば、薬Aを使用すると80%の確率で症状が抑えられますが、腎機能が低下する確率が10%あります。とする場合、仮に症状が治まらずに腎機能が低下する結果に陥ったとしても、合理的判断の結果ではありますが、しかし、腎機能が低下する20%の実際の該当者は簡単に納得できないのではないか?という論点や、医者に向かって「あなたの伴侶や子供であれば、何を選択しますか?」という相手を自分の地平に降ろす行為をどう考えるのか?と言った医療者(サービス提供者)と患者(サービス需給者)の関係の話しも、凄く身につまされます。
また、かなり衝撃的ですが(私にとって)『「いつ死んでも悔いが無いように」という言葉には欺瞞を感じる、死という未来が確実だからと言ってその未来からだけ今を照らすやり方は、そのつど変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見る事の大切さを忘れてしまうためではないか?』という部分の説得力です。私はネガティブな人間ですので、基本、その遠からず等しく全員に訪れる地点から、今をみて考えてしまいます。このやり方が自分には合っていると思うし、そういうのが私である、とも思いますけれど、それでも、この言葉には衝撃を受けました。メメントモリとか一期一会を感じてその時出来る最善を選択し続ける事を最上と考えているからです。ですが、こういう考え方もあるのだ、と知る事が衝撃的だった、という事です。
ここから、確実性、必然性、などの確率論に話しになり、それが〈弱い〉〈強い〉運命論の話しになっていきます。
特に現代医学が、確率論の話しに至る部分、かもしれない未来と、ありえた未来の話し、とても量子力学的(でも、なんだか私はまだ量子力学に納得出来ていませんが)です。
医療者として、エビデンスに基づく、インフォームドコンセント、いや、この言葉が横文字が多すぎてダメで、科学的検証に基づいた説明と納得の上での同意を求められる現代医学では、一昔前のテレビドラマ(で見かけるわけですから、どれくらい前のモノなのでしょうね)では確実に観た事がある、往診してくれる先生(あの黒くて大きな鞄!)、その先生の裁量の幅の大きさと、比例する先生への信仰にも近い信頼、という構図と比べれば、より洗練された、と言えます。が、しかし、洗練されたことにより、失われた『何か』が存在するのも事実だと感じます。それが医療者だけでない人柄を含む人間としての信頼感、という事なのだと思いますが、細分化され専門性の高くなった分、医療レベルの上がった現在では、当然難しくなります。
それでも、この本でも示されている解決策である、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」というのが、今の解決策だと思います。テクノロジーの進化、進化を止める事は出来ませんし、最も辛い事は、進化がどのように進むのか?誰にも分らないという事だと思います。もちろん善意で始まってもいます。
また、選ぶ事の大変さ。決めるの疲れる、というような状況に陥った時こそ、〈強い〉運命論として、患者より権威的に強い者が選択する事に依存する、という指摘も、大変重いですね。
医療人類学なる分野がある事を知ったのも、この本でしたし、その中でアーサー・クライマンという先生の言う3つのセクターの話しも、考えさせられました。人が病気にかかると関わる3つのセクターとは、1民間セクター、患者を取り巻く家族友人知人、2専門職セクター、国家的権威ある組織が付与する資格保持者、3民俗セクター、独自の理論をもつ医療行為を行う人々、というカテゴライズです。
私はあまり民俗セクターを信用していません。もちろん治る人もいると思いますし、専門セクターで治らなかった人が民俗セクターで治る例も多く存在すると思います。が、逆の例も多く見られる点、そして自浄作用が無い点(ホメオパシーでの事故や疑似科学との親和性等)が問題と思います。そして再現性が無い事や、施術者が変われば出来ないという事も大きな問題だと考えます。ただし、そこにすがりたいという人がいるのも事実ですし、現代医学が全てを救えるわけでもありません。縋りたい人が縋れる世界は、良い世界だと思います、取捨選択の自由、そして自己決定に於いてであれば、です。しかし、この本でも疑問視されている、自己決定とは果たして可能であるのか?というのがポイントだと思います。
端的に言えば、そもそも生きている事が不条理なわけで、仏教ではありませんが、欲を持つ事がそもそも期待する事で、失望を招くとも思っています。そして次は無いかも、と思って生活しているつもりです、多分まだ真剣みが足りないとは思いますが。
もちろん、その事で、宮野さんの言うまるっとした未来を信じる、という事は出来ません。ごくごく稀に訪れる好意と好意の交換や、信じられる人との信頼から起こる熱源でさえ、時と共に変化するものです、その時はもちろん失礼のないように振る舞いますけれど。
自己決定がどのような過程を経て、成り立ちえるのか?はたまた、自己決定を左右する事象とは何か?を突き詰める事は必要であると思います。しかし、1人の、能力の少ない人間として、私はそれらを受け入れるしかないと思うのでです。現段階での自分の総てを投じて(そこにはこれまでの経験や蓄積を含みます)、その上で、最後は引き受ける覚悟を持つことでしか解決できないと思うのです。これはあくまで現時点での到達点で、しかも今後変わっていくと思いますが、かれこれ20年くらい、結局この考えの根本は変わらないところを見ると、コレが私の限界であり、処世術なのだ、とも感じる事があります。
つまり精一杯生きるために、生きる事そのものに執着しない、という事しかないと思うのです。
運命という言葉には、人間の自由意思を低いものとみなしてしまう部分があると指摘したのは銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーでしたが、この言葉は、私にとっての真理であると共に、プロテスタントのカルヴァン派の言う、神のノートにはすべてが記載されている(だから最善を尽くせ)、と同じ意味で全力を尽くす事に異存はありません。
それでも、小林秀雄が言う、自己嫌悪は自己憐憫の一種である、という言葉も理解した上で、比較対象を繰り返ししつつ、やはり自分が好きになれないし、自分であるのは私しかいない、という事でその自己決定に責任を持ちつつ、事故の欲求を満たし甘やかせる事の甘美性を享受するのも私であり、私の自己決定なんですよね。
支離滅裂な文章も多いですが、この雑多な感じこそ、この本で感じた事だし、多分今の私の限界なので、このまま残しておこうと思います。
本当に考えさせられ、考え続ける事を教わった本です、多くの人が読むに値する名著だと思いました。

「なぜオスカーはおもしろいのか? 受賞予想で100倍楽しむ『アカデミー賞』」を読みました

2020年6月5日 (金) 09:00

メラニー著     星海者新書

ラジオで知ったメラニーさん。映画会社に勤めるシネマディクトの方の、アカデミー賞予想と、アカデミー賞の楽しみ方、の指南本だったので読みました。

最初に、私のスタンスとして、ですが、アカデミー賞に、全然興味ありませんし、受賞作だから見たい、とか、受賞した人が凄いとか、作品の価値が高まる、とは1mmも思ってません。読後もその考えに変わりはありません。そもそも作品を作るのは、きっと作りたいからで、アカデミー賞等の受賞を目的に作られた作品の質が高いとは思えません。それに、おおよそ、アカデミー賞を受賞していない作品の方がクオリティが高い場合、特に作品賞の受賞作に関して言えば、受賞していない作品の方が好きな場合が多いです。どんな賞でも、基本的には同じスタンスです、アカデミー賞に限った事ではないです。また、受賞にまつわるお祭り騒ぎも好きじゃないので、全然見た事が無いです。なので、どんなお祭り騒ぎなのか?も知りませんけれど、アカデミー賞授賞式を見る時間があるなら、他の映画を観たい、違った時間の過ごし方を選択すると思います。

とは言え、この本の面白さは、そんな何も知らない私にアカデミー賞の仕組みや、概要、その際のスピーチ、また、ハーヴィーワインスタイン騒動について知るきっかけになった事が面白かったですし、バックラッシュと呼ばれる、受賞するに値する作品に対しての『やっかみ行動』に結構な予算を割いて行っている人がいる、という事を知れたのも、ああ、これからもアカデミー賞とは、無縁でいいな、とも感じられた事です。

ですが、面白いところもたくさんあって、やはりその群像劇のような、製作会社、監督、役者、その他大勢の人々の様々な思惑が交差する人間模様として面白かったですし、メラニーさんのように、予想する、という1点に重心を置いて、予想する事の面白さ、また、その予想率を上げる為には、あえて作品を観ない(観なくても、アカデミー賞前に行われる様々な賞の受賞歴によって、アカデミー賞の予想には問題ない)というロジックが大変面白かったです。

そして、あ、これなら見てみたい、と思ったのは、私の中での(ま、もう更新はされないと思います、このジャンルを新たに観よう、という気になれないし、年齢的に限界が来た・・・)ラブコメの最高傑作「恋人たちの予感」のビリー・クリスタルが司会者の時が面白かった、というのは、観てみたいかも、と思わせてくれたし、懐かしく思います。ビリー・クリスタル、最近映画ではとんと見かけなくなりましたね・・・

アカデミー賞が好きな人に、オススメ致します。

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