井の頭歯科

「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」を読みました

2024年3月8日 (金) 08:52
小野寺拓也 田野大輔著     岩波ブックレット
ネット社会になって1番良かった事って、私にとっては、調べる手段が増えた、に尽きると思います。ネットが無い世界だったら、まず間違いなく、図書館。それ以外ですと、知っている人に直接聞く、しか方法が無かったと思いますし、知っている人が誰なのか?すら分からなかった世界です。なので、知っている人に会った場合、失礼にならないように気を付けはしますけれど、いろいろ伺ったりしますし、その対価を何も払えない状況だと、聞きたくても聞けない、という事になります。そう考えると、ネットのありがたみを凄く感じます。
しかし、ネット社会のルールがまだ完全に確立していない事で、わざわざ出会わなくても良い人が出会い、そして礼儀が無い事で、凄くぎすぎすした関係や険悪な感じになる事が多いのが、ネットの私が考えるデメリットです。
その中でも、カエサルが言うように「人は見たいものしか見ない」がより強まった気がしますし、検証をしない人が多い気がします・・・私も含めてです、当然。当たり前ですけれどリテラシーって必要ですし。
その中でもポリティカルコネクトネス、新たなルールというか、概念ですし、まだ慣れない事で、軋轢があるのだと思います。
専門家だからこそ気付ける事があると同時に、専門だからと言って鵜呑みにも出来ません。そして物事を言い切るのって、とても慎重な判断が求められると思いますし、言葉ってホモサピエンスにとって最も有効なコミュニケーションの手段です。つい、相手が見えない事から、強い言葉を使ってしまう事があります。私も気をつけたい。
同時に言葉は残る、記録に残るわけで、その事に対してもう少し配慮があっても良いかと思います。
この本はネット上で一方的な批判を受けた専門家が、歴史的データを基に反論した書籍ですが、まぁ言い分は最もだと思います。それに割合知られていた事も多い気がしましたが、読んで理解出来ました。
それでも、多分、ネットの中で批判してきた人々には届かないんだろうな、という感覚もあります。凄く、砂漠に水を撒くような行為にも見えるけれど、誰かが少しでも水をまき続け、反論し続けないと、どうにもならない気がします。
話しが通じない人に何かを届ける事を考えていた時期もありましたが、残り少ない時間を考えると、出来れば話が通じる人と話がしたい、という風に意見が変化してきました。
それでも、多少は話しを、同意を得る為の、相手も生きているホモサピエンスであり、敬意を払うべき対象であるという認識は必要だと考えています。
難しい態度が求められると考えています。
ナチスの成果について、詳しく知りたい方にオススメ致します。

「一般意思2.0」を読みました

2024年3月1日 (金) 09:17
東浩紀著     講談社文庫
コテンラジオ、というポッドキャスト番組を聞いています。世界の歴史キュレーションプログラム、と謳っていますけれど、本当に楽しく、歴史を学べます。
今までに、様々な観点から(それが人物だったり、宗教だったり、革命という出来事だったり、戦争も、老いとか死という概念も扱われています)歴史的に俯瞰して、どのような変化が起こったのか?を学べますし、だからこそ、今何が必要なのか?などを深堀り出来ます。自分の認知が歪む、揺れる事がとても面白く興味深いです。
そこで、民主主義の歴史、という大変難しいテーマを扱った事がありました。
その中で凄く印象に残ったのが、一般意思と2600年前のダレイオスらが話した記録とされる優れた政体について、です。一般意思についてはこの本の感想でまとめるとして、そのあまりに面白かった部分を、文章に起こしてみました、少し長いですけれど・・・
2600年前のペルシア帝国(あの、アレクサンドロスⅢ世にその後滅ぼされる・・・)でダレイオスⅠ世が3つの政体について議論している記録があるのですが、その3つが、民主制、寡頭制、独裁制です。
オクタネスは、我らのうちの1人だけが独裁者となる事は、好ましい事でもなく、良い事でもない。のであるからそのような事はあってはならない。諸氏は、カンビュセス王(先代の王)がいかに暴虐の限りを尽くしたかをご存知であり、また反乱勢力の暴虐ぶりは身をもって知られた通りである。何らかの責任を負う事無く、思いのままに振る舞う事の出来る独裁制が、どうして秩序ある国政たりうるであろうか?このような政体にあっては、この世で最も優れた人物であっても一端君主の地位に就けば、かつての心情を忘れてしまうだろう。現在の栄耀栄華によって傲慢の心が生ずるであろう。さらには人間の生まれ持っての嫉妬心と言うモノがあり、この2つの弱点(傲慢と嫉妬)があるから独裁者はあらゆる悪徳を身に備えてしまう。
これに対して大衆による統治というのはまず第一に万民同権という麗しい名目を備えており、第二には独裁者が行うような事は行われないという事がある。職務の管掌は抽選で選ばれ、責任をもって職務に当たって貰うのが良い。あらゆる国論は公論によって決せられる。とすれば、私としては独裁制を断念して、大衆の私権を確立すべきという意見を提出する。
続けてメガビュゾスは、オクタネスが独裁制を廃すると言ったのは私もまったく同意見であるが、主権を民衆に委ねよ、というのは最善の見解とは申せまい。何の用にも立たぬ大衆ほど愚劣で横着なものは無い。したがって、独裁者の悪逆をまぬがれんとして、凶暴な民衆の暴戻の手に陥るがごときは断じて偲びうるものでは無い。一方は事を行うが場合に自らを知って行うのであるが他方に至ってはその自覚すらないのだ。もともと何が正当であるかを教えられもせず、自ら悟る能力もない者がそのような自覚を用いるわけがないでは無いか。さながら奔流する川にも似て、ただがむしゃらに国事を推し進めていくばかりである。それゆえにペルシア(この議論を行っているオクタネス、メガビュゾス、ダレイオスが所属している国家)に害心を持つ者は民主制を取るがいい。
我らは最も優れた人材の一群を選抜しこれに主権を付与した方が良い。もとより我ら自身もその数に入るべきであり、最も優れた政策が最も優れた人材によってなされるのは当然の理なのだ。
最後にダレイオスは、私はメガビュゾスが大衆について述べた事はもっともだと思うが、寡頭制に対しての発言は正しくない。すなわち、ここに定義されら3つの政体がそれぞれに最善の姿にある、と仮定した場合私は最後の独裁制が他の政体よりも断然に優れていると断言する。最も優れたただ一人の人物による統治よりも優れた体制が出現するとは考えられない。そのような人物ならばその卓抜した指揮権を発揮して民衆を見事にまとめあげるだろうし、また敵に対する謀略に対しても最も良く保持されるであろう。
しかし寡頭制にあっては公益の為に功績を争う幾人もの人間の間に、ともすれば個人的な激しい敵対関係生じやすい。各人はいずれも自分が主導者となり、自分の意見を通そうとする結果互いに激しくいがみ合う事になり、そこから内紛が生じ、内紛は流血を経て独裁制に帰着する。
一方民主制については悪のはびこる悪人たちの間に敵対関係ではなく強固な友愛が生じる。それもそのはず、国家に対して悪事を働こうとする者は結託してこれを行うからだ。結局はこのような事が起こり、何者かが先頭に立って死命を制する事になる。その結果、この男が国民の賛美の的となり、独裁制に収斂する。
これが2600年前の議論ですよ・・・今の2024年のネットでも散々言われている話しよりも、精度が高く語られていると思います。凄く分かりやすいし、反論が無いわけでもないですが、理解出来ます。しかし人類の歴史が進歩して、古代ギリシアの民主主義、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、そしてジャン=ジャック・ルソーの出現とフランス革命による多大な犠牲により、もっと進化しているのが今の民主主義で、その根幹に関わるのが、ルソーの社会契約論、中でも難しいと感じたのが一般意思です。
その一般意思についてもう少し学びたいと思って、ずいぶん前に購入して挫折していた本書をもう1度挑戦してみようと思いました。
ルソーの言う一般意思は、確かにこれを目指そうとしない限り、各人の自由が担保出来ません。ホッブスやロックはまだ分かりやすかったのですが、ルソーの一般意思が、仮にあるとして行動しない限り自由を担保出来ない事は理解出来たけれど、それを民衆全てが理解出来ているのか?またその事を本当に、希求した事があるのか?という疑問もありますけれど、本書の東さんは概念であった一般意思を示す事が出来るシステムを人類は手にし始めている、と解釈しています。
それが、ネットで行われているSNS含む各人のログを集積してビッグデータにする事で可視化する事が出来るし、意識ではなく、それが無意識の集積である事から、一般意思になりうる、という解釈をしています。
これはかなり面白い思考実験だと感じました。
ルソーの言っている事は、あくまで理想であり、目指すべきポイントに名前を付けた、とも言えると思いますが、可視化出来るのであれば、もう少し理解は深まるとも思います。
ただ、無条件に一般意思という概念というか目指すポイントがある、と言い切ってしまうのも恐ろしい気がしました。あくまで方便として、ルソーは「一般意思は間違わない」と言っているだけで、検証も、実験もしていないと思います。最初にやるなら、小さなコミュニティで実験すべきな気がします。せめて規模は小さくとも、可能性があるのか?を試してみる価値はあると思いますが、どうなるのか?は不明です。
それに、政体を変える、って古代から続く国家とか帝国の統治でも、都市国家でも構わないのですが、政体を変えられた事って、それも非常に大胆に、存在しなかった政体に変えるって人類の歴史であったのでしょうか?革命、敗戦以外の統治政体の変化ってあり得たのか?疑問があります。
普通に思い出されるのは、共和制ローマから、帝政ローマへの移行だと思いますが、これって世界史上で最もうまく行った(それでも暗殺や内紛がある・・・)継承で、カエサルという天才がオクタヴィアヌスという秀才を見つけて指名しているという、非常に稀な出来事だと思います。平和裏に継承が行われ、政体の変更があった事ってあるのでしょうか?
ロールズの無知のヴェールでさえ、思考実験として理解は出来ますけれど、だからと言って現在の富を子供に託すことを止められる人、継承を止め、相続税を100%にする事ってなかなか出来ないと思います。ブレグジットでさえ、議論の余地はあるし、人間は感情を理性でコントロールすべきだし、それが大人だとも思いますが、出来ないのもホモサピエンスの特徴とも言える人間の獣性だとも言えると思います。
東さんも結局のところ、民主党政権のあまりのあまりさ、それに加えて東日本大震災を経て、現在はこの考え方を変えているようですけれど、それでも、この著作を文庫化して(私が読んだのは文庫版)いるのは、様々な批判があった上でも、残しているのは善き事だと思います。
なんだかんだ言っても、結局のところ、日本社会に民主主義は根ずく途中なのだと思いますし、もっと言えば、与党というか政権担当能力が1つしかない状況に問題があるのだと思います。これがポテンシャルなわけで、それこそ古代からずっと輪を持って尊ぶべし的に、この状態が続いていますし、これがこの国の文化なのだとも言えると思います。普通は政権交代が起こせるほどに人材が育たなければ、例え後退しても悪くなるだけですし・・・
思考実験として、大変面白かったですけれど、ホモサピエンスの限界もあるような気がしますし、個人の存在しないところに個人主義も存在しないという話しとも言えます。
それでも、生きているだけで大変な世界なわけで、生活に追われて考えたり学ぶ機会が少ない事を考えると、とても難しい、長い時間のかかる事なのかも知れません。生きている人間の時間軸の中では、大変難しい事なのかも。
思考実験が好きな方に、オススメ致します。

「ついていく父親 胎動する新しい家族」を読みました

2024年2月6日 (火) 09:40
芹沢駿介著     新潮社
知人にお借りしたのですが、面白い考察。でももう少し先まで踏み込める、とも思った次第。
刊行は2000年で神戸連続児童殺傷事件の驚きから論考を重ねた家族像への解析だと理解しました。
神戸の事件は1997年ですし、その事から家族、という形態の変化の話しになっています。
著者芹沢先生のお考えの基になる部分の理解が、私には少し難しく、エロスという単語を用いてもいますし、エロスの意味が著者の言う何が含まれているのかで判断が難しかったです。
エロスはどちらかと言えば、性愛の方の意味合いが強く感じますし、愛という事で言えば、個人的にはプシュケという方が近い感覚があるのですが、これはギリシャ神話の話しから考えると、という事なので、どういう意味合いで使われているのか?ちょっと不明でした。
ですが、いわゆる母性とは何なのか、それとアプリオリに、必ず存在するモノなのか?それとも、刷り込みを含む後天的な所作なのか?私には判断出来ませんし、よく分からないです。出産がもたらすイニシエーションは確かに凄い事なのかも知れないし、しかし出産さえすれば、母性が発揮できる、という事でもないような気がします。
いうまでもなく、その後長く続く育児を考えると、共同作業と昔は言えたかもしれませんが、今は違うと思いますし、かなり難しい正解のない事のように感じます。
覚悟を持ってでも難しいとは思いますけれど、そういう事ではなく、自然とそうであった時代から、1990年代辺りから変わってきたと思います。最初に私が感じたのはDINKsという考え方だったと思います。
著者の大まかな考え方は、この悲劇的な事件を、家族、という単位から、母親、そして父親というロール(役割)から考えた著作と言えると思います。様々な形があり(トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」の冒頭の有名な家族の話しと同じように!)、時代による変化も俯瞰した上で、今後の変化や、考え方、実例を挙げた実践されている例を出しながら、結論に至るのがついていく父親、というモデルだと理解しました。
ただ、もう少し踏み込める、と言いますか、もっと社会の形、影響、そしてそれは私たち(という大きな単語も好きじゃないのですが)が選択した結果なのではないか?と思うのです。そして、ある種のポイント、もう既に変えられないポイントを過ぎた感があります。
結論から言うと、これは避けられないのではないか?と考えています。一定数、子育てが上手くいかない人は存在すると思うし、中には重大な事件を引き起こしてしまう子供を育ててしまう事になる可能性が、常に、どんな家庭でも、一定数起こりうる、というだけな気がしました。それも個別家庭の問題よりも、社会的な問題の方が大きいのではないか?と感じたという事です。
以下、私の認識している社会的な要因について。
少子化は既に既定路線ですし、世代が一回り以上(第2次ベビーブーム世代が既に生涯未婚を決める50歳に到達)しているので、よほどの事があっても変わらない。異なる世代間同居は減少し続け、単居世帯がこらからさらに増え(つまり非婚化)る事も既定路線です。これは育児環境にヘヴィーな状況にしかならない。地域や世代を超えた相互扶助があり得た育児とは真逆で、ワンオペに近いと思います。
(ただ、欧米だって同じ歩みなんですけれど、居住環境が違い過ぎるとは言え、何かしらのヒントはあると思うのですが、個人が存在しないムラ社会だと難しいのでしょうけれど・・・)
その主たる育児負担者の母親に、母性だけを頼りに常識の変わるスピードが異常に早くなった現代で、ワンオペは相当な負担だと思います。でも、この社会形態を選んだのも、社会形態を緩やかに変える可能性がある唯一の手段である政治、そして選挙に、行ったとしても、行かなかったとしても、結果が全てで、特に変わらなかった。
というような大まかな家族を取り巻く社会の状況が、大きな問題で、各家庭の事情における問題の前に、社会の問題があるように感じました。
もう少し細かく整理すると、
1960年代から続く高度成長期には、サラリーマン家庭、所謂第一次産業ではなくなり、会社が多くの男性にとって家族のような形態になり(終身雇用も相まって)、親との同居を解消していきました(地方との格差を生み出してもいる)。家庭を持つ事=大人になる事 という構図になり、同時に専業主婦という形態が一般化し、育児は母親の仕事で、稼ぎを得るのが父親の仕事、という分業が、この時代のノーマルになりました。ノーマルであり、常識だったのですが、当然ですけれど、常識だって、ノーマルだって変化していきます。この時はこれで良かったと思いますけれど、個人が考えて選んだ結果であるなら良いのですが、皆がしているから、特に考えもなく、という層が一定数、というか結構大多数だったような気がします。
親との同居の減少、これは間違いなく、個人が自由を欲したから、人によってはわがままになったから、とも言えると思いますが、とにかく、2世帯以上の同居は無くなったわけです(個人的には、ココに嫁姑問題という日本文学の一大ジャンルがあるように、現実世界にも、負のリサイクルがあるように思います 感情をコントロールできない 自分がされた嫌な事を、自分もする)。その結果、専業主婦が育児を一人で行う事になった訳です。これにニュータウンとか団地とかが重なっても、まだ希薄ながら地域社会があったのですが、東京ではそれすら、生活時間の違いや地域社会との付き合いを費用対効果で考えるようになり、それもなくなった訳です。
自らが望んで、自由や分業を手にしたことで、育児というそれまでは地域社会も関わっていたモノが無くなる過程で、ワンオペ化したわけで、これも、当然選んだ結果のように感じます。
当人たちがどのように考えていたのか?分からないですけれど。
その子供世代は、親たちの生活感や結婚観を感じながら、その後のバブルを頂点に、その後は今、だけでなく将来を考えるようになったと思いますし、賃金がどんどん下がっていく(のは少なくとも政治による部分も大きいと思うのですが)中で少子化どころか非婚化したわけで、これはいくつもの理由があると思いますけれど、分業化した育児と稼ぎの中で、稼げない人は結婚できない、となりますし、小倉千賀子著「結婚の条件」で出されていた、冷蔵庫を買う訳では無いので失敗できない、吟味に吟味を重ねる事と、ロマンティックラブの間で引き裂かれる事になりますし、ロマンティックラブを優先させれば、当然若さによる勢いが必要で、考慮する事が出いないし、若さを捨てて吟味を重ねると、引くに引けなくなります。もちろん相手である男性も同じで、しかも男性は男尊女卑に思考が固まって、それが常識化していると、何故自分が選択されないのか?を理解出来ていないとも思います。
非婚化し少子化した中でも、育児のハードルが高いのは変わらないし、男性の育児参加は増えているようで、実際のところ、自分事にまでなっていないでしょうし、当然その間の必要経費も稼がなければならないわけで、どうにもならない。男性側も昔の価値観に引っ張られていると思いますし、実際に感じます。
そういう社会の中で、子育ての中における父親の役割、学校制度や教育の指針(恐らく、自分よりも良い学校に行け、は結局子供から見ると、親の人生は失敗だったように見えるし、幸せ、幸福な家庭に自分は育っていない事を自覚させる行為に他ならないし、親のルサンチマンを晴らす道具に子供がなっているように感じさせている可能性がある)の上昇志向も相まって、どうにもならないような気がします。
という事で、社会的な背景が大きい、と感じました。もちろん家族像の変化も大きいかも知れないけれど、それは社会的な背景によるし、その中での、父性は、追従とか自由を与えるとか規範の中での安心を優先的に選びやすい、という事だけの問題じゃない感じがした、という事です。
もちろん、ついていく父親の存在価値はあると思います。でも、ついていく、の中での結果責任を負う覚悟が必要です。親には子供を育てる義務があるけれど、親も初めて親になっているので、そのメンター的なモノが、母親像としては、ある程度存在しますし、それが例え虚飾な部分があったとしてもモデルケースにはなります。
ですが、父親像に至っては皆無な気がします。モデルケースで思い出されるのって、もしかするとまだ星一徹(漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父で、癇癪を起すとちゃぶ台をひっくり返す、暴力的で強権的な父親として描かれている)感覚なのかも知れません(是枝監督が少し手を付けている気もしますが)。
それに、ついていく先が何処なのか?ワカラナイのを手放しでついていく事の恐ろしさも感じました。学校教育が最高だとは思わないし、団体生活も個人的には嫌な思い出もたくさんあるけれども、社会で生きていく以上、恐らく経験する事は必要で、その上で、社会とあまり関りを持たない選択肢を選ぶのであればよい気がします。
でも、これだけ不登校の人が増えたのは、それなりの理由があると思いますし、学校、以外の選択肢があまりに少なすぎるとも思います。
それに不登校の中に、学校集団生活にどれだけ適応させられるか?を判断する基準が無いのも難しいし、親世代で不登校の人が増えないと、関わり方が難しい上にワカラナイとなってしまいそうです。
つまり、母親や父親や家族の中の空気の問題や関わり方の問題も、もちろんありますけれど、それ以上に家族を取り巻く社会構造の問題な気がした、という事です。
だらだらと長くなってしまいました・・・

「100分DE名著 自省録 他者との共生はいかに可能か マルクス・アウレリウス」を読みました

2024年1月19日 (金) 09:28
岸見一郎著
映画「カード・カウンター」で主演のオスカー・アイザック扮するウィリアム・テルが刑務所で愛読していた描写があって気になっていたのですが、岩波文庫が結構な分厚さで、少々ひるんでしまい、こちらを先にと思って読みました。
かなり好ましい、私も非常に感銘を受ける言葉の数々です。
分かりやすく例えると、メメント・モリと、カルペ・ディエムの相反する教義を持ち合わせ、共生の概念を極限まで推し進めた、という事になると思います。
そして、大変厳しい現実を、そのまま受け入れつつ自制しながらも、この厳しい現実を良い事に変化させようと常に努力した人なんだと思います。
哲学者になりたかったのに、ローマ皇帝を拝命し、そして善政を敷いた賢帝と言われています。
これは、プラトンの言う哲人王の政治、と言えなくもないと思います。そして、その効果というか結果は素晴らしすぎるとも言えます。ただ、非常にまれな名君が哲学者を志向していた、とも言えるし、これだけ内省している人、それを幼少期から見出して、皇帝にするべく帝王学を教えている状態とも言えるので、卵が先か鶏が先か?は不明ですし、これほどの賢人であっても、継承に失敗しているそうです・・・本当に継承って難しいですね。
日記ですらなく、自省録、自らを省みる記録、を記していたわけで、誰に見せるでもない文章の連続です。
しかし、非常に心打ちます。私はアウレリウスと比べて非常にちっぽけな、存在しないに等しい存在ではありますが、立派さは理解出来ます。
現実を現実のままに受け入れ、逃げないし、正面から向かって行き、善なる行いをしようとずっと試み続けるその姿勢が眩しい。
どんな人物でも、権力や金を手にして時間が経過すると自堕落で、自分にとって都合よく現実を解釈しだすと思うのですが、このような例外があるのだ、という例を知れて良かった。
2千年以上昔の人物ですけれど、信じられないくらいですね。

「不揃いの林檎たちⅤ/男たちの旅路<オートバイ>:山田太一未発表シナリオ集」を読んでいます。

2023年12月8日 (金) 08:16

 

まだ全部読んだわけじゃなく、あくまで「不揃いの林檎たちⅤ」を読み終わっただけなのですが・・・
脚本、すべてのドラマの基本だと思います。長く続けられたドラマシリーズですし、個人的な思い入れも、もちろんありますし、何と言っても、シナリオを読むだけで、頭の中で、配役されたキャストの喋りが聴こえるくらい、完全に刷り込まれた状態なので、大変面白く読みました。
出来れば実現して欲しかったドラマですけれど、このドラマの場合、主要キャストを変える事は難しいと思います(無論、小林薫だけは変更されてしまいましたけれど・・・)。
そして、最後まで読むと、この作品で、不揃いの林檎たちシリーズが完結した、と感じました。4流大学、学歴の事を主軸に、その後シリーズ化して、それぞれのキャラクターが生きている感覚に陥るくらい、生き生きとした人物を描き続けた山田太一さん。最後を知れて良かったです。
そして、良質なドラマと言うモノは、私は脚本にあると思いますし、キャストは旬というだけでなく、オーディションで質を担保するべきだと思います。山田太一さんのドラマはそのクオリティがとても高かったと思います。
中でも「岸辺のアルバム」の完成度と衝撃度は、刷り込まれてしまったレベルです。
そして山田太一さんは、映画監督木下恵介の弟子筋、というのがしっくり理解出来ます。
映画という文化が育てた部分、あると思います。
そんな山田太一さんが亡くなられた、というニュースを聞くに、追悼の意味でもTBSはドラマを観れる状況にして欲しいですし、NHKは「獅子の時代」をもう少し見やすい環境にして欲しいです。
大きな物語ではなく、日常のドラマを見せる事の難しさ、丁寧な作品を観る事によって、その他の作品も相対化出来ると思いますし、批評性が出ると思います。
今、山田太一さんのドラマ「不揃いの林檎たち」を観ても、それなりの衝撃があります。
これからもシナリオ集を読んでいこうと思いますし、未見の「早春スケッチブック」とか「男たちの旅路」を観て行こうと思います。
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