井の頭歯科

「ジゼルという名のバレエ」を読みました

2025年11月4日 (火) 09:02
シリル・ボーモント著     佐藤和哉訳     株式会社新書館
バレエの演目で何が好きなのか?はバレエ好きの中では結構いろいろな回答があると思います。
また、ダンサーを誰に想定しているか?でも変わってくる可能性ありますが、純粋に演目だけ、で考えると、結構な上位にくるのはジゼル、ドン・キホーテ、白鳥の湖、いろいろあるでしょうけれど、ジゼルは中でも好きな作品です。何しろ演者に異常な負荷がかかるバレエの1つだと思います。そういう意味ではローラン・プティの「アルルの女」は私の中で1位ですが、ジゼルもまた同じくらい強烈な作品です。
ですが、私個人はそんなにたくさんの回数見ている訳では無いのですが、この演目を目にしていると、どうしても気になる存在がいて、それは主役ジゼルでも、王子であるアルブレヒトでもなく、ヒラリオンの存在なんです。
所謂王子アルブレヒト≒村人ロイスである男の対比として必要なキャラクターであります。ですが、その扱いが、どう考えても間違っているように見えるんです。
王子の対比として、マッチョな勘違い横恋慕男、という演出は、たくさん見てきましたし、なんなら髭をモチーフにされているのも、違う感覚があるのです。
このヒラリオンほど救われないキャラクターはいません。
何故なら、アルブレヒトの対比だから、同じ女性ジゼルに心寄せるも、アルブレヒト≒ロイスをジゼルは選び、偽りの姿であるロイスをアルブレヒトであると暴こうと真実を明かしているのに拒絶され、2幕ではアルブレヒトの愛を輝かせる為に、死んでいくキャラクター。あまりに哀しい存在じゃないですかね・・・
もちろん、ヒラリオンがジゼルに受け入れられる必要はないんです、それはジゼルの自由だし、そういうモノです。ですが、扱いがあまりに、対アルブレヒト、にだけの存在であるという事実が哀しい。
それに扱いが軽すぎるのも、嫌な感覚があります。ジゼルという作品の中のヒラリオンの立ち位置は、決して対アルブレヒトだけな訳ではないと思うのです。それに、ヒラリオンが光ってこそ、アルブレヒトはもっと光り輝くと思うのです。
そんな事を考えていたので、この本を手に取りました。
まず、非常に古典的なロマンチックバレエ。そしてロマンチック、という単語には異国情緒、というニュアンスがある事も最近知ったので、その点も含めて、知らない事を知る楽しさがありました。
また、ラ・シルフィードを基にしている、という事実に、非常に驚かされました。私の考えるヒラリオンの立ち位置の輝きを考えると、そうか、ラシルのガーンなわけです。
非常に納得したと同時に、もし、私がジゼルを演出するなら、もっとヒラリオンに光を当てたい、と感じるようになりました。
当然ですが、ストーリーは決まっていますし、それを変える事は無いのですが、ヒラリオンはアルブレヒトを輝かせる為、だけのキャラクターではなくなると思います。
脚本を書くにあたり、非常に思い入れのある、特定の人に向けた作品であったというのも意味を感じますし、振付に至ってはとある1名の人物の名前が記載されていない、というのも驚きでした。
作曲家アダンについても驚きの事実を知りましたし、ライトモチーフの使い方にも驚きました。
しかし何より、私にとって驚きだったのが、やはりラシルを基にしたバレエ、1幕と2幕で変える、ロマンティックバレエを作ろうと思って作った、そして一人の女性に向けて作られた作品である事を知れたのが良かったです。カルロッタ・グリジ、彼女の名前は特に強く印象に残りました。
原作のゴーティエの望みも、そしてグリジの後半生の選択も、凄くいろいろ興味深いです。
ジゼルに興味のある方にオススメします。

「おせっかいでウルサイイスラエル人」を読みました

2025年10月27日 (月) 09:00
狩野聰美著     ブイツーソリューション印刷
恐らく、自費出版された書籍で、友人にお借りしました。
アジアンドキュメンタリーで、イスラエル、そしてガザの事を少し知りたくて色々見ているのですが、普通の日本国籍の方からどう見えたのか?が分かる気がして、友人にお借りしました。
まず、1967年から77年までイスラエルで生活されていた著者のエッセイです。凄く、愛憎入り混じる感じで、とても好ましく感じる部分と、凄く近い部分に憎悪感情もあって、とても複雑に感じました。
あと旦那さんがチェロ奏者でイスラエルフィルハーモニーにも在籍されていた方で、という事は、ズービン・メータと仕事をしている、という事です、驚愕。
イスラエル社会の(筆者が思う)良い部分と、悪い部分の、境界が個人的には曖昧模糊に感じはしましたが、その感覚こそ、著者の生活感。まさに随筆たらんとするところ。なので、感想としては、凄く読みやすく、楽しかった、です。
で、今、2025年の今、読むに値するとは思いました。
日本が平和ボケか?と聞かれると、当たり前ですが、そういう部分もある、と思いますし、世界的に見て、徴兵制を敷いている国の方が割合としては少ないけれど、国民国家Nation-stateが生まれた世界だと、少なくとも歴史上は、自国民が軍隊にいる方が強いのでしょうから、仕方ない部分もあると思います。
イスラエルに興味のある方にオススメします。
しかしズービン・メータが知り合いってすげぇ。

「爆弾犯の娘」を読みました

2025年10月7日 (火) 09:15
梶原阿貴著     ブックマン社
いつも刺激を与えてくれる友人Kくん。同じようなラジオを好み、同じようなカルチャーを好きで、映画、書籍、音楽に造詣が深く、大人になった後に友人になったのですが、年下なのに好きなモノのベクトルがおおよそ同じな貴重な友人です。その友人との会話で話題になったので、手に取りました。
2024年に逮捕された桐島聡。彼は1974年から75年にかけての連続企業爆破事件の犯人で、実名を明かしたのは入院してからで、その数日後に病死されました。つまり指名手配から50年くらい潜伏生活をしていたわけです。
その事を映画監督高橋伴明監督が映画化するのですが、その時、脚本を任されたのが著者である梶原阿貴さんです。
監督から、5日で初稿をあげろ、と指示される場面から、このノンフィクションは始まります。
何故著者である梶原さんに脚本を指名したのか?は読んでいただくしかないのですが、ノンフィクションです。
一応、著者の事で誰でも知り得ている情報、私の知っていた情報を言うと、映画「桜の園」中原俊監督作品に、俳優として出演されています。詳しく覚えていないけれど、観ています。そして、クリップしているが観ていない映画「夜明け前までバス停で」の脚本を書いている人。
なかなかハードモードな道を歩まれているのですが、大変興味深く読みました。
感覚として、やはり本人でなければ分からない事、かなり多くある作品だと思います。それと、石橋蓮司さん、全く知らなかった緑魔子さん、ちょっと調べてみたいと思いました。
演劇に興味のある方、というかこれはなんでもそうなんですけれど、演劇を演じている自分に興味がある人だと、響かないかも知れないけれど、そして大半がそんな人に見えるけれど(これはバレエの世界で特にそう感じる)、そうではなく、演劇に興味のある人にオススメします。

「嵐が丘」を読みました     Wuthering Heights

2025年9月19日 (金) 09:03
 
エミリ・ブロンテ著     小野寺健訳     講談社古典新訳文庫
まず、古典作品にもう少し触れても良いのでは?という気持ちが常にあります。趣味は読書、と言えた時代もありましたが、老年になってもう少し触れておけば良かった、と後悔しています。なので、何処から手を出すかなんですが、エメラルド・フェネル監督が来年マーゴット・ロビー主演で映画化されると聞いて、興味を持ちました。
あと、古典の中でも比較的名前が有名。嵐が丘、名前が強いです。そして、何の予備知識も無いです。何の話なのかも知らなかったです。私が読んだ事がある古典作品って、レ・ミゼラブル、カラマーゾフの兄弟、アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、カフカは城とか審判とかいろいろ読んでますけど、スタンダールもトーマス・マンも読んでない、文学弱者です。
でも考えてみると、何が古典なのか?結構複雑。オイディプスとか三国志は古典で間違いないでしょうけれど、シェイクスピア作品って1600年辺りだったような・・・それだとしてもたかだか400年前で、これを古典と呼んでよいのか?微妙。で、wikiで調べても、確実に、こう、と定義付けられていません、おそらく、文学的評価の定まった作品を、古典文学と呼んでいるのだと推察されます。
だとすると、名前が有名な「嵐が丘」も当然古典文学に入るでしょう。それにイギリスの文学は、それこそ「高慢と偏見」で有名なジェーン・オースティンもいますし、最近読んだアガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」は最高の文学作品だと思いましたし、ウィリアム・ゴールドウィンの「蠅の王」だって素晴らしかったし、面白いに違いないし、知らなかった何かを知る楽しみがあるはず!
という期待値が高すぎたのかも知れません。
あらすじの紹介は他で見て貰うとして、いろいろ気になり過ぎる事が、たくさんあります。しかしどれもネタバレを踏んでしまう可能性が高いです。
アテンション・プリーズ!
ここからは、ネタバレありの感想です。未読の方はご注意下さいませ。
ので、ココからは「嵐が丘」という文学作品のネタバレと、あくまで文学弱者の私個人の感想が綴られますが、あくまで個人の感想です、作品を穢すつもりはありませんが、何で?どうして??があまりに多すぎました・・・そして非常に批判的な感想ですので、そういう駄文は読みたくない方はスルーしてください。感性の死んだ高齢者の文学弱者が戯言を述べているだけです。
文学作品の進歩の証、つまりまだ文学的な創意工夫が未熟だった頃のテクストとしての存在、とも言えると思いました・・・
まず、チョイスしたのが講談社古典新訳文庫で、これは読みやすかったから、です。冒頭をいろいろ岩波や新潮他数社比べて決めましたけれど、主な人物関係図、が最初に載ってて、しかも栞にまで、登場人物の名前と説明があって、イイ!これ!と思いましたが、作中の誰が、誰と結婚して子供が生まれるんだ、を知って読んでいると、全然楽しくないです、結果を知ってるのだから・・・
なんでこんな作品が現代にまで残っているのでしょうか?
そして、登場人物の全員が、頭が悪い、獣のような、その場の雰囲気と感情で行動を起こし、且つ、即直後に後悔する、みたいなのが多すぎる!!まるでおかしな行動を全員が取るために、凄く頭が悪い人、ばかりに見えるんです・・・
感情の波の高低差が激しく、毎秒毎に感情がかき乱され、精神的に安定している人が、ほぼいないんです・・・あ、何度も言いますが、私個人の感想です、この文学作品の評価を貶めるモノではありません。ありませんが、この作品の、何を、評価しているんでしょうか????
みんな都合良く、退場していきますし、都合良く誕生してきます。そして復讐譚とか悲劇とか言われていますけれど、どこに悲劇性があるのか?全然分からないです、私には。
恋愛の話し、確かにある種の恋愛の話しではあると思いますけれど、細部、何故恋に落ちたのか?何故その人を好きになったのか?の細部が全く書けていないと思うのです。もう全員が当然のごとく一目惚れ一択。潔ささえ感じます。で、それが作者の物語にツイストをかける為、にしか見えないので、稚拙(と古典作品に思う私のなんと思い上がった感想!でも思っちゃったんだから、そうとしか感じられないんだから仕方ない・・・)とさえ感じました。
唯一、執着の話し、というのであれば、納得します。でも、何故ここまでの執着なのか?と問われたら、説得力があるのは、
①ヒースクリフの育ち(孤児からの、実子よりも優遇された過程、その後のネグレクト せめて、何故実子よりも優遇されたのか?の理由くらいは明示して欲しい)
②キャサリンがエドガー・リントンと結婚を決めた事をネリーに語った部分をたまたま聞いてしまった
とこの2点だけ、ここだけは納得出来ますが、それも発端に過ぎず、そこから何がどう発展した、とは言えないと思います。その時の感情だけで、ここまで執着しますでしょうか?
なんというか、また世界の半分以上を敵に回すんですけれど、素直に感情を委ね、登場人物たちに感情移入しているのであれば、感情をグリップさせられて、身を委ね、感情をグリグリとコントロールされる心地よさ、あるかも知れません。が、あまりそのコントロールも上手くは無いと感じました。薄っぺらな表現で申し訳ないけれど、幼少期のホモサピエンスで書籍や文章を読み慣れない人なら、感動するかも。
娯楽の無い世界で、恋愛や人生を語れる時代の話しであれば、キリスト教がその世界の隅々までいきわたり全員がある一定水準以上信仰している世界であれば、話題になるかも知れませんが、恐ろしい事に、発表当時は全然売れても話題にもならなかったようで(wiki調べ)本当に、何故この小説が悲劇的で古典として生き残っているのか不思議。
レ・ミゼラブルのような世界観と広がりがあるのであれば、ホモサピエンスの普遍性みたいなモノも含まれますし、当然恋愛だの結婚だの生活の話しもあれば、政治や活動、信念、信仰の話しもあり理解出来るのですが、この小説はちょっと勢いに任せて書かれた、推敲が足りない印象を受けるのです。
物語で言うツイスト、予定調和を崩す、どんでん返しみたいな事も、伏線からの、というわけでは無くて、とにかくどんどん数で勝負みたいな感覚があり、整合性とか、あまり感じられません。そもそも婚姻関係とか法律関係、医療関係についてもあまり詳しくは無い印象なのに、結構重要なポイントで、さらり、とそうなった、となるのが続くと、どうしても続きが気になるというよりも、そうですか、となってしまいます。
がそれもこれも、本当に戯言であって、時代も違うし、読んでいる書籍も違うし文化も違う世界の話しを一方的に現代的視点から批判するのも筋違いでしょう。
入れ子構造で、語り手が出てくるまでの感覚と、いわゆる信用ならざる語り手、当時として新しかったと思いますし、斬新。
ヒースクリフという、白人社会に現れた、白人上流階層の教養を得る機会を得た、非白人というのも新しいかも知れませんし、粗野、野生の魅力をいうのも珍しいのかも。
また、悪魔とかサタンと言われるセリフが多いヒースクリフの、悪魔というダークな魅力、あるのかも。
と良い所を挙げたいのだけれど、全然出てこない・・・そもそもなんでヒースクリフをミスター・リントンが拾ってきて育てようと思ったのか?も不明だし、3年ほど消えてた間の詳細どころか雰囲気も分からない、この頃の階層を超えるのは、よほどの事だと思いますけれど、3年じゃ難しいと思うのですが、というか、この3年こそ、書かれるべきビルドゥングスロマンになりそうなのに、不明です。出自も不明なまま・・・
一緒に育てられた幼馴染で兄弟だけど血が繋がらない魂の連帯者、という妄想ももしかしたら新しかったのかも知れませんね。一緒に育ったのなら、もう少し兄ヒンドリーにも愛まで行かずとも、もう少し好意的な進言とか関りを持ってあげればよかったのにね。
でも、幼馴染で兄弟で血が繋がらない、幻想というと、まぁそんな事は関係ない、と言われるでしょうね。つまり感情、この作品が好きな人に何を言っても伝わらない気がします、議論にならない。
野生児の魅力とかもダメなんでしょうね。ヒースクリフの魅力はそんな低俗じゃない、と怒られそうです。幼馴染の血の繋がらない異性幻想も、きっと怒られるな。
ヒースクリフは、本当に、ヒンドリーに復讐出来たのでしょうか?だらだらと生き永らえた、とも取れるし、別にすべてを暴力で解決とは思わないけれど、野蛮な人で悪魔なんだけど、結構ヒンドリーに対して優しい、とも取れる。全然復讐な気がしないし、この登場人物たちは、かなり気が短く、思考よりも行動を優先するのに、殺す、とか痛めつける、とかの描写はほとんどない。血が流れる事も稀。ギャンブルを楽しんで野垂れ死に、みたいに見えるけど、どうなんだろう。
もしかすると、これがイギリスの、英国の田舎の閉鎖的な、因習的な感覚なのかも知れませんね。そういう意味での田舎の怖さはちょっとある気がします。
あと、神がいるから悪魔が対立構造として必要なだけで、ヒースクリフの執着が、悪に、なんなら愛に見えてる人、いるんでしょうね。私はただの執着だと思うし、みんな都合良く死んで退場するの、ご都合主義的に見えるけれど・・・
あと、貴族というか上流階級だからこそ、の自分はこうなんだから、こうしてくれて当たり前、感覚はかなり触りますね、紳士と淑女の国も、田舎はこんな感じだったのでしょうか?でも同時代の「高慢と偏見」のベネット氏は全然違ったような・・・
それと妊娠問題も、強い違和感。
妊娠に至る部分は、まぁいいでしょう。けれど、妊婦であるという情報がほぼでないで、ヒースクリフとキャサリンが最後に抱擁するシーンを頭に想像していたのに、急にキャサリンが亡くなり、同時にキャシー誕生、え、だとすると、さっきの抱擁シーンは妊婦って事??となり、本当に、萎えます。妊婦だから萎えるとかじゃなく、時系列的にも、作者のご都合主義に、萎えるんです。もっと上手く書いてくれよ・・・推敲が足りてないんじゃ、と邪推したくなります。
ヒースクリフのラストも、それと、キャシーとヘアトンの結末も・・・なんか内輪の話しばかりで、死ぬために登場させられてる感すらあるリントン・ヒースクリフの哀しみがより際立って感じますね・・・急にねじの回転みたいになるし。
この講談社古典新訳文庫の訳者小野寺健さんの解説でも、凄く嫌な表現を使うので引用しちゃいますけど
下巻 解説 416P
しかし、一度読んだだけでそこまでの理解に到達するのは難しい。魂の底の底を探って、えぐり出す精神の強さ鋭さは、著者が命がけで表現した質のものだ。
うん、魂については本当に何も言えません、私の魂があったとして、確実に低俗だもの。その魂を感じろ、Don’t Think Feelという事であれば感受性の無い私は多分無理で、だからわかんないんだと思います。Don’t Think Feelの考え方も諸説あるんですけれど、この場合は普通に、考えるな感じろ、です。
分からない私が悪い。
が、小説というジャンルの進化を感じる、古典としての何かを、感じました。まぁ同時代と言っても良い、ジェーン・オースティンには書けてるから、ちょっと違う気もするけれど。

「ババヤガの夜」を読みました

2025年9月12日 (金) 08:42
王谷晶著     河出文庫
出版は2020年で、その時、冒頭は立ち読みして、そのままにしてしまっていました。そして今年2025年に英国ダガー賞を受賞、という事で大変賑わっております。
ところが、私ダガー賞を受賞した作品を、読んだ事が無いし、ダガー賞を受賞した作品をそもそも知らない。で、ちょっと調べてみると、ダガー賞といってもゴールド・ダガー賞とインターナショナルダガー賞という風に分かれているようです(wiki調べ)。で、もちろんインターナショナル・ダガー賞を受賞しているみたいですね。ゴールドの次点でシルバーという受賞もありますし、マッカランが資本提携しているようです。
そしてゴールド・ダガー賞受賞作品ジョン・ル・カレ著「寒い国から帰ってきたスパイ」は読んでいました。
当たり前ですけれど、なんとか賞を受賞したからと言って、それが私にとって素晴らしい作品か?は別ですし、ダガー賞を知りもしないで、持ち上げるのもどうかとは思います。
読後に、1番びっくりしたのが、著者の性別が女性であった事です。そうか、そういう意味でなら、分かります。
そもそも、文章の書き手の性別が、作品の評価に決定的な違いが存在するのか?と、は問いたいですよね。優れた作家は優れた作品を残すし、普通の人が1作だけ何の前触れもなく素晴らしい作品を生み出す事もある、また、読み手にも成長や時期があり、全く分からなかった作品が年齢を重ねた事でよく分かる重要な作品になったり(10代の頃、ミステリをよく読んでいた時期では、アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」は全然分からなかったと思います)、考えが改まる、私はある事だと思いますし、これに気付けたのは鶴見俊輔氏の名著「戦時期日本の精神史1931ー1945」を読んだからですし、その前にある程度、先の大戦についてのある程度の見識が無いと、それも無駄に終わっていた可能性だってあります。選択の積み重ねが今の私なわけですし、忘れてしまう生き物でもある。
もちろん、なんとか賞の受賞を本人の作家さんが喜ぶ気持ちに水を差したいわけではなく、読書で理解出来るのであれば、自ら読んで判断したい、というだけです。当たり前ですが権威ある賞の価値と私一人の価値なんて比べるべくもなく。
ただ単に、いわゆる世界的な評価を受けると、急に全員が認めるのはどうかと思うだけです。宣伝、広告業、に不信感がある、全く信用できない、と思っているだけかもしれません。虚飾業だと思いますし、ね。
話しが長い・・・でも正確を期そうとするとこうなってしまいます・・・
友人に、読んでみたら、とオススメされたので読みました。
凄くバイオレンスな小説です。主人公の新道依子は暴力に惹かれて体を鍛えている女性で、ふとしたことからとある組織にスカウト(?)されて・・・というのが冒頭です。
これを、女性が書いている、そしてある種のバディを描いた作品として紹介するのは、よく分かりますし、確かにそういう部分もあるのですが、何となくミスリードな気もします。
基本的に読んでいただくしかないと思うのですが、ある2名の女性の連帯、バディ感、今まで見た映画小説の中では出てこなかった関係性で、新しい、と感じました。
で、これが、自らの発露であるのか、環境の為なのか?という部分はどなたか既読の方と話してみたい感覚あります。大仕掛けの部分については上手いとも感じました。でも、あっちの顛末も気になる。
なので、ネタバレありの話が誰かとしたいなぁ。
あくまで身体性の話しとして、男性は筋肉量が多い傾向にあるでしょうし、だから長所として、自らの利点である腕力を使ってきた歴史がありますし、その腕力を暴力に変えて、現状変更してきた歴史と言い換える事も出来ますし、なんなら今も面子のはなしで、大量のホモサピエンスが、腕力の先にある、銃器で、兵器で、人工的な飢餓で、殺されています。
そういう意味で、男性は暴力的だとも言えるし、その影響で、女性は非常に長く苦しい歴史を歩んでいると思いますし、なんなら人権という概念が発生したとて、まずは男性に付与され、時間を置いて(結構長い)女性にも付与されましたけれど、選挙権とか、その他も恐らく一緒です。そういう意味で長く辛い経緯がある。
それでも、女性であっても身体を鍛える事が出来、一般的男性と比べて腕力が勝っている場合、何某かの意見の相違の解決に、腕力≒暴力を用いる、なんなら用いたい、という欲望があるのかも知れない、と気づけた事は発見でした。そう言えば中島みゆきの「ファイト」でも、男に生まれれば良かった、という部分は、ある種の腕力を行使したい、という願望、と捉える事も出来るかも知れません。
腕力を使っての交渉、現状変更、凄く嫌ですけれど、国家間でもやってるし、ホモサピエンスは乗り越えられないハードルなのかも知れません・・・
私も腕力がつけば、腕力を行使したくなるんだろうか?
暴力に興味のある方にオススメします。
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