井の頭歯科

「影の獄にて 戦場のメリークリスマス 原作版」を読みました

2023年7月14日 (金) 09:02
サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著   由良君美・富山太佳夫訳   新思索社
初めて読む方です。もちろん戦場のメリークリスマスを観なかったら、手に取らなかったと思います。本当に読んで良かったです。
ここ数年、当たり前のことですけれど、親しくさせていただいた方が亡くなる、という事が多くなってきました。最近ですと、辰野先生も、森先生も、そして患者さんも。
親しければ親しいほど、頭の中で、いつもこれで最期にお会いする事になったとしても、と思いつつ行動しているつもりなのですけれど、それでも、もうお会いする事が出来ない、という事実は大変重く感じられます。
そして身辺整理は今すぐにでも行わないと、出来ない可能性がある、という事を強く意識させられる出来事があると、ままならない、不条理に満ちた世界を生きている事を自覚して、出来る事をやっておかないと、と思いました。
どんなに準備しても足りない事や出来ない事もあるのでしょうけれど。
この本の感想も、その人と話したかった。
映画化作品を観た後から読んでいますけれど、当たり前ですが、映画化される事を望んで、想定している訳では無いと思いますし、著者のサー・ローレンス・ヴァン・デル・ポストさんの体験を考えると、まさに凄まじい体験だったんだと思います。しかも、サーを得ています。
そして、第2次世界大戦に従軍していますし、俘虜の立場を経験していますし、日本と縁深く、多少なりとも日本語も話せたようです。そういう方の体験があったからこそ、書かれた作品です。
全体は3部構成になっています。映画化されたのは1部と2部の部分です。ですから、当然ですけれど、全然違う話しになっています。大島渚監督の編集だと思いますし、当たり前ですけれど、書籍と映画はまるで違った文化です、この原作の映画化と言う意味で大島渚監督は物凄く上手い改変をされている、と思いました。
まずとにかく文章が詩的なんです。それも、私は全く詩に詳しくないのですが、とてもイギリスっぽさを感じさせる、ワーズワースとかウィリアム・ブレイクとかの文章を感じさせますし、とにかく教養、と言う意味で全く歯が立たないくらいに、この文章の背後に、なんらかの暗喩や意味が隠されていそうです。そこはかとなく、その隠されているように感じさせるのです。しかし、教養がなくとも、この文章が、ヒロガリがあり、美しい、という事は分かります。つまり教養が無くても美しいと思わせる事が出来るのが、凄いです、訳者の方の努力もあると思いますが。
恐らく、完全に私の妄想ですけれど、ただの詩的というだけでなく、もしかすると韻を踏んでいたりしている文章なのでは無いか?と推察しました。だからこそ、この翻訳に当たられた由良君美さんと富山太佳夫さんの仕事は大変難しかったであろうと思います。英語で美しい文章と日本語で美しい文章は、意味ではそうは違わないかも知れませんけれど、音の響きや韻と言う意味では違ってしまいかねません。でも、訳された文章しか読めないのは、残念ですけれど、非常に美しい文章だったと思います、だからこそ、読み込むのに時間がかかりました。
第1部 影さす牢格子 クリスマス前夜
この本の語り手が、旧友であるローレンス(この本の著者名は、L・ヴァン・デル・ポストと表記されていて、読者が、L=ローレンスだとワカラナイ様にしてあるのも上手い!)と久しぶりに戦後に会って、同じく俘虜時代の事を思い出し、語り合うという作りになっています。つまり、作者とローレンスが別人になっていますけれど、どちらも同じように、ローレンス・ヴァン・デル・ポストと察せられる感覚があります。まるで1人の人間の別人格が脳内で話しているかのようでもあり、しかし実際に創作ではあるので、作者の分身であるのは当然としても、ローレンスと別に語り手がいる事に最初は驚きました。
そして、2人で、ハラ軍曹の話しをするのですが、そのハラを表す表記の中に「ハラという男は、おのれを虚しく出来る」(P43)というのがあって、とても上手いと思いました。
1部では、恐らく、俘虜体験と、そして西洋と東洋、さらにキリスト教的な赦し、と日本神道的な全体主義との対比が主題です。かなり巨大な文化的隔たりについての話しなのですが、おおよそ、ローレンスや語り手の体験談は、著者の体験談でしょうし、本当に恐ろしいです。
生きて虜囚の辱を受けず、的な文脈で語られる戦陣訓含む日本神道的な世界を、たった80年ほど前はそれこそ真剣に行っていたわけで、西洋からすると、とても神秘的に見えた部分もあったと思いますけれど、その集団の俘虜になる、という事がどれほど恐ろしい事か?を考えてみれば当然ですが、まさに暴力的な世界だったと思います。そこで生きる為にキリスト教的赦し、を対比させるのが凄いです・・・
ハラの恐ろしさ、そして語られる獄中でのハラとの最後の話し、ハラの日本的な死のあり方含めた、対比はとても重みがありつつ、素晴らしいと感じました。しかしそれでも、ハンナ・アーレントの言う悪の凡庸さ、について考えさせられる事にもなるわけですけれど。
第2部 種子と蒔く者 クリスマスの朝
ここでは、ジャック・セリエという男についての2人の語り合いです。セリエもまた、著者ローレンスを思わせるのですが。映画でデビッド・ボウイが演じた人物です。
ここで、確かに映画でも語られているセリエの過去があるのですが、物凄く簡略化、というか省略されていたのだ、と感じました。実際に、セリエの手記のようなものが語り手に託された事で、ローレンスと語り手がセリエについて話し合います。特にセリエの手記が見事です。著者は明らかに、語り手、そしてローレンスとはっきり区別して、セリエを描いています。
語り手、ローレンスよりもはっきりと苦悩する、それもキリスト教的な裏切り、醜い感情の話しであり、その上で、より文学的で詩的な文章なんです。この手記だけで短編小説として十分成立する話しですし、キリスト教的世界観というものを感じられます。そしてこのセリエと対比される人物が、映画で坂本教授が演じたヨノイです。このヨノイとの奇妙な繋がり、と言いますか皮肉な関係性は映画とはまたちょっとテイストが違うと思います。まぁかなり大島渚監督が脚色していますし、ある一方方向にミスリードしている、とも読後は思えました。ただ、セリエ、という人物の魅力、それも本質的な美についての感覚は、かなり惹かれるモノがあったのも事実ですし、人としての魅力と言って良いと思います。
タイトルにある、種子、そして誰が蒔いたのか、この本を読んで私にもそれを蒔かれた感覚があります。この話しを本当は、話し合いたかった方は既にいないのが悲しいです。
第3部 影と人形   クリスマスの夜
これはこの1,2部の後の、ローレンスの話しです。これも非常に読み応えのある詩的な文章で描かれた、凄くロマンティックな話しです。ですが、リアルでもあります。私はローレンスの生き方に共感しました。そういうひと時があれば、その後の人生が僅かな輝きしか持ちえなかったとしても、満足して死んでいける気がします。
戦時という非常事態、理不尽な世界の中でもかなり過酷で、極限状態であっても、いや、だからこそ、人の持つ何かが問われるのだと思います。
でも、だから戦争という非常事態が起きて欲しくない。その努力は支払うべきなんでしょうけれど、あまりにその経験者が少なく、拝金主義が過ぎると、キリスト教さえ沼に入る事になったうちの国が、どうにか出来そうにない気がします。
本当に読んで良かったです。

「科学の罠 美と快楽と誘惑」を読みました

2023年6月9日 (金) 09:01
長谷川英祐著   青志社
進化生物学の長谷川先生の著作で最も興味を惹かれたタイトルでしたが、名著でした。
ここ数年ではそんなに書籍を読めて無いのですが、高橋昌一郎先生(哲学・倫理論理学)、辻田真佐憲先生(軍歌・近現代史研究家)の著作は読んできましたが、この長谷川先生も追いかけなくてはならない先生になりました。
東日本大震災、それに伴う福島第一原発事故を契機に書かれた書籍です。いわゆる科学哲学、科学は何をどう扱っているのか?そしてその為に必要な、扱っている範囲の問題の事です。ひいては、長谷川先生の考えが示されていますけれど、どれも深く納得する話しばかりでした。
一応、私も科学を学んだ(医学の中の歯学も、当然科学の範疇に入ると思います)末端の末端にいますけれど、確かに、科学に対する考え方って人によって違う気がします。それをもう少し厳密に考えてみよう、というお話しです。
文章は大変読みやすいですし、長谷川先生の科学エッセイとも言えると思います。しかもトリビアルな知識を知る楽しみもあり、どんな人にもオススメで出来る書籍だと思いました。
信頼出来る、というか個人的に好きなのが、理系に所属する人で、小説や文学という文系の趣味がある人に惹かれる傾向がありますけれど、長谷川先生も、ジョージ・オーウェルの「1984」やスタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」などの例を挙げてくるのが、心地よく感じます。
科学が問える範囲について、凄く分かりやすく、How と Why との2つについて答えられる、しかし What については答えられない、としているのが、大変分かりやすく面白かったです。Howは『それはどのようになっているのか?』を問いていますし、Whyは『それはどんな理由により存在するのか?』を聞いているわけです。しかし、Whatについては答えられないのが科学だ、と言っています。Whatは『それは何なのか?』という問いに他ならないですし、それを科学では取り扱っていない、と断言しているのは、大変に納得、膝を打つ話しでした。
生物が物質を分解してエネルギーを取り出す、という中学生くらいの理科で習うアデノシン三リン酸を例えて話をしていますけれど、How『それはどのようになっているのか?』に答えるとすれば『生物が物質を分解してエネルギーを取り出す(=内呼吸)というのは、ブドウ糖を酵素を使わずに分解し、その過程でエネルギーを取り出す解糖系、そして酵素を使いながら物質を循環させて解糖系に比べて多くのエネルギーを取り出すTCA回路がある。そのどちらも物質が別の物質に変化する過程でエネルギーを含んだ水素が取り出され、そのエネルギーを電子伝達と呼ばれるプロセスを用いて取り出す』という事になります。Why『それはどんな理由により存在するのか?』について答えるのであれば『生物が生命活動のエネルギーを得る必要があり、解糖系はそれを解決するためのメカニズムとして存在する。恐らくこれが最も効率よくエネルギーを得られるシステムであったから』という事になります。
しかし、What『それはなんなのか?』について、上手く答える事が出来ません。客観的に、誰もが、同じように再現出来る、という答えにならないからです。この説明は大変納得してしまいました。科学とは何が出来るのか?という長谷川先生の答えである『現実を操作する事が出来るツール』というのも秀逸な理解だと思います。凄く生活やテクノロジーに密着してる。なので現実を変える事の出来るツールになり得ますよね。
そして、悪魔の証明は出来ない、というのも深く納得。科学によっては、無い事を証明出来ません。当たり前ですけれど、これも新鮮な驚きがあります。例えば、ネッシーというイングランドのネス湖に住んでいるとうわさが絶えなかった(のは私の子供の頃にドラえもんで知った知識・・・何年くらい前の事でしょうか・・・)ネッシーが不在である、という証明は出来ない、という事なんです。ネッシーのある事例について、これは捏造だとか科学的な知識で判別する事は出来ますが、実際に絶対いない、と断言する事が出来ません。
そして分類、という事についての指摘は本当に鋭く、これまであまり考えた事が無かった世界です。個人的に思い当たる経験としては、定規の長さの中にも無限があるのでは?と子供の頃に思った事がありましたけれど、それが故人的には一番近い感覚です。定規の長さが1mでも30cmでも構わないのですが、有限に見えて、何処までも少なく小数点以下凄く細かく概念で考えると、無限に小さく考える事が出来るし、それって無限が潜んでいるんじゃないか?と考えた事に似ています。その後プラトンの考えたイデアでも同じ様な話しが出てきたと記憶しています。実際の点、を人間が描いても、必ず、点に幅が存在する。幅のない点は概念でしか存在しないし、そういう事含めてイデアでないと存在できない、というアレです。これにも近い考えだと思います。
複雑性を便宜的に、整理する機能が分類の役目であって、科学的に、分類する事が出来ない、という事です。遺伝子的にだって、系統であっても、何処かで恣意的な判断で線を引く事になってしまう、という説明は本当にその通りなんですけれど、全然気づけていなかった事実です。
客観性と再現性のないモノは科学ではない、測定は誤差から逃れられない、有意差を用いる事しか出来ない、等本当に、確かに!という話しばかりで凄く納得しましたし、考え方がとても理路整然としていて分かりやすいです。
長谷川先生のような方と話が出来たら、凄く面白いと思いますし今後も著作は追いかけていきたいです。
科学やテクノロジーの恩恵に預かっている人に、オススメ致します。

「働かないアリに意義がある 社会性昆虫の最新知見に学ぶ、集団と個の快適な関係」を読みました

2023年5月26日 (金) 09:24
長谷川英祐著    メディアファクトリー新書
BSの番組の少子化についてのニュース番組に出演されていた方が、なかなか面白い発言をしていて、専門は進化生物学、と聞いて俄然興味が出ました。なので少し調べてみたら、出てきたのがこの本だったので、読みました。
少子化問題は、個人的には既に手遅れですし、ゆるゆると衰退していくのは既定路線だと思います。また、少子化対策と言われている事の、ほぼ全てが、あまり効果が出ないでしょうし、実際に、出ていない。恐らくですけれど、既婚者に向けた少子化対策だけでは無理でしょうし、そもそも、婚姻関係や戸籍、家制度という家族像の変化に制度が追い付いていないのに、保守的である、という事が政治的な意味を持つ(もっと言うと、左派、というだけで嫌悪する人がいたり、右派を蛇蝎のごとく嫌ったり・・・兼ね合いの問題だと思うんだけれど・・・)現在、少子化対策は多分保守派には無理。そして保守的な家族観を持つ人を増やすのも、多分無理、なぜなら人は自由(堕落含む)な傾向を好む生き物だと思います。そうでなかったなら、核家族化は進まなかったはずです。
だから、自由度を損なわない中で、少子化対策をしないといけないし、それは保守政権を自負すると難しいでしょうし、恐らく衰退していくでしょうし、もう既に始まってますよね。
とは言え、世界の人口は増えているわけで、地球環境で生きられる人間の人口にも限りがある。それに、ピーク時と比べて少子化、あるいは高度経済成長期と出生数を比べたら、それは少子化でしょうし人口の減少なんでしょうけれど、江戸時代の人口と比べたら、現在でも増えすぎているくらいですし、いつのデータ、実数と比べているのか?なので、どうとでもいえると思います。
もっと言えば、幸せな家族像の中で育まれた子供は自然と結婚して子供を成すのでしょうけれど、両親の不和や不仲にも原因の遠因はあるように思われます。なかなか根深いし、既に少子化の世代が一回りしている感覚があり(生涯出生数、生涯未婚率は49歳までで、この世代が既に少子化)手遅れなんじゃないかな?と思う次第です。
人口減少しても社会的資源を有効に活用できるよう、システムを変えていかないといけないけれど、多分それが無理なんで、どうにもならないですね。
閑話休題
進化生物学、とても興味がありますし、所謂昆虫の中での社会性がある生き物の研究から、進化を捉えるのはなかなか面白そうです。
長谷川先生の入門的な新書ですし、とても読みやすく、しかも驚きの事実がたくさんありました・・・
いわゆるクローンという染色体レベルで同一という存在は、既に自然界では普通にあるのを知ったのは結構衝撃的でした。働きアリはある種クローンが存在している種がありますし、これは福岡伸一著「できそこないの男たち」でも言及されていましたけれど、オスの役割って本当に微々たるものなんだな、と思います。
さらに利己的と利他的の関係性の機微、フリーライダーの存在、そしてなにより働かないアリ、働かない働きアリの存在の意味については、本当に驚愕。そしてなるほど、と思いました。
長谷川先生の考える、フラットな科学、そしてある種の哲学への考え方、当たり前ですけれどデータをとってくる事の重要性、その姿勢に共感を持ちました。もう少し他の著作も読んでみたいです。
進化生物学に興味のある方に、オススメ致します。

「ゆりあ先生の赤い糸」を読みました

2023年5月19日 (金) 09:15
入江喜和著   講談社
初めて読む漫画家さんですけれど、このストーリィというか設定がかなり唸らされました。ここ20年くらい漠然と考えていた事がより鮮明になった感覚があります、まだ考えは完全にはまとまらないのですけれど。
父は闊達で堅気な大工職人、母は専業主婦、姉は女性らしい女性、という家族構成の中で育った妹のゆりあ(主人公)は、姉がねだったバレエ教室に一緒に通いつつも発表会で大役のミルタの配役を得た事で、妬みのような感情に嫌気がさし、バレエからは遠ざかった経験を持ちます。30歳で売れない作家である旦那と結婚、現在は50歳となり、子供なし、義母と夫の3人で夫の実家で暮らす刺繍教室の先生です。というのが冒頭です。
正直、どんな展開になるのか全然読めなかったですが、50歳女性をかなり真正面から主人公と置いた作品って見た事が無かったので、凄く興味を持ちました。
これまでに、映画の世界でも、そして現実でも、いわゆる家族観と言うモノの変化を感じます。少し調べるだけで、専業主婦、という概念も1950年代くらいからですし、少子化とは言っても世界の人口は増え続けていますし、現段階において、うちの国もかなり貧乏になってきています。恐らく、短絡的な金銭を目的とした犯罪は増える傾向にあると思います、残念で怖い事ですけれど。
そういう国の中で、どのような社会でも1番小さな単位である、家族をどう考えたらよいのか?は人それぞれです。今までと同じ1950年代から続く両親と血縁関係にある子供でも良いし、それ以外もあるでしょう。
少子化の問題は根が深いと思うのです、というか必然だと思います。
そもそもなんで核家族化したのか?と言えば、皆がわがままになったから、自由を手に入れたから、です。親との同居を嫌がった、からでしょうし、嫁姑問題をある程度解消するのであれば、世帯を分けるのが得策です。3世代同居する世帯の割合は平成27年の調査で6パーセントを切っていますし、サザエさんの様な家族像は既に1割にも満たない。
さらに、単身者の世帯数は4割を超え、恐らく今後1番多い世帯の形になろうとしています、つまりみんな1人が結局のところ好きなんだと思います。だって、わざわざ『家族』を形成しなくても、外部委託出来るし、生活の重労働な部分は電化出来て久しいです。
しかし、無いものねだりがあるのも人間で、家族がいない人は、家族の幻想を抱いて、リアルを知らずに家族を欲しがり、家族がいる人間は自由を求めて離婚やら別居をするものだと思います。どんな状態でも欲求は尽きる事がありません。
それでも、他者との繋がりはやはり欲しいもの。だから、家族という契約関係まで硬くて重い繋がりではなく、緩やかな関係を、それも血縁という繋がりの無い関係性を求めているのだと思います。それが新しい家族観に繋がっているという感覚が、私の年代でもあります(1970年生まれです)。
また貧乏な国になった事で、家父長的な立場を金銭で賄っていた父親、という像に対して、金銭的な理由でそれを持ちえない人が夫にすらなれない、という自覚もあるでしょう。女性側にもいろいろあるでしょうし、条件がきっと存在するでしょうけれど、ロマンティックラブイデオロギーの強さは、それこそ持てなかった時代だからこそ、自分の娘には、という感覚もあるので、その辺ももう少し調べてみたいですし、本当にいろいろ考えさせられます。
そういった家族の形態の新たな試み、をしている漫画です。
新しい家族像をリアルを持たせるのが難しい。その難しい事を、しかも50歳の女性に持たせる事に成功している漫画だと思います。この人の性格の問題はありますけれど。
そして、凄く大きな問題を、どのように扱えば小さくなるか、という難問に、大きな問題を複数抱えれば、どれも割合小さな問題に見える、という解決方法を実践するのですが、そこにギリギリありうるかも、という細部まで詰めているのが素晴らしい。
しかも直接の中心的な謎を、不在の中心に置き、ここに介護という現実を入れた事で、物語に重みが増しているのも素晴らしい。
なので、風呂敷を広げるまでにはなかなかの謎、というフックと、そこから始まる奇妙なある種の運命共同体を築き上げ、生活を描いたのはかなり凄い事だと思います。
で、ただ、ただなんですけれど、扱っている問題のかなりヘヴィな中に、恋愛要素を入れてくるのが、凄く意外でした・・・割合ここ無くても成立するような気がするんですけれど、多分そうではないんでしょうね。事、恋愛という関係性において、全然男女で違う受け取り方があるんだろうな?と感じました。介護、育児、趣味、仕事、と同じくらいデカい。多分男性は恋愛ではなく性欲として外部委託出来るが、ココだけは出来ないのが女性なのかも。みんながそうじゃないのは理解していますし、男性だって外部委託出来ない人もいらっしゃいますし。
そう言う意味で、いつまで女性なんだろう、とも思うし、それは何時までも続くものなのかも知れません。個人的には生物学的子孫伝達の仕組みは無くなれば楽になれるのでは?とも思う。残念ながら、男性はそれがかなり後にくるので、個人的にはキツイと思うんだけど。でも生物学的子孫伝達だけが目的でもないですから、本当に難しい。
でもここまで真正面から50代の家族像を描いたのは、本当に凄い事だと思います。男性だと割合、というか、ほとんどの作品が、必ずある種魅力的な女性が出てきて、協力してもらってても、ハードボイルドに出来るし、なんならみんなが村上春樹を嫌う、なんで主人公が勝手に女性から好かれるかワカラナイとおっしゃりますけれど、そんなのハードボイルと呼ばれる作品には必ず入ってる要素なんじゃないの?と思います。なので、きっと男女ともに、そう簡単に性別から降りる事が出来ないんでしょうね・・・この辺は女性のおじさん化とか男性のおばさん化とかを考えてみたい、案外いる気がします。
なので、個人的にはばっさり、恋愛要素を切って良かったんじゃないかな?と思います。それでも成立したと思う。だけれど、エモーショナル要素が少なすぎる、という判断があったのか?もしくは現実には無いからこそ、ファンタジー(ハードボイルド作品や村上春樹作品と同じように 都合の良い魅力的な異性)が入ったのかな?という部分が知りたい。
もしくは、恋愛要素の部分を全部カットして、東村アキ子の「タラレバ娘」みたいな今はまだ特異に感じる友人コミュニティにするとか。
男性モノはとかく、孤独を好みがちなんですけれど、それでも、ゆるやかな連帯、ゆるやかな父親の代わりくらいの役割を担う話しがあれば良いのに、といつも思います。
シェアハウス的なアパート(理想は『凪のおいとま』みたいな感じ)の中に、保護すべき対象者(子供がいる家庭、もしくは要介護の方等)が居て、その方々へのバックアップや協力を条件に入居できるような関係性が築けるようなモノがあれば、そして、税制上の有利な点、もしくは居住に関しての何らかの利点があれば、子供や高齢者との繋がりも出来るし、独身の利点も生かせるんだろうけれど、まだなんか良い案があるような気もします。特別養護老人ホームがあるように、一般の人でもそこで何かしらの労力を払えれば、という感じをイメージしますけれど、難しいですよね。信頼関係が無いと。
50代を迎えた人に、オススメ致します。

「街とその不確かな壁」を読みました

2023年4月21日 (金) 09:49
村上春樹著   新潮社
凄く、久しぶりに村上春樹をわざわざ読もうと思ったのは、まず私にとっての彼の最高傑作は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だからであり、その中に出てくる街の事を、新作のタイトルが指していると思えたからです。どう考えても、彼の著作を読んだ人なら、そう思うと思います。
また、そこまで熱心な読者ではなく、熱心だったのは高校から大学生くらい(今から30年くらい前・・・)で、まぁあり大抵に言って、文体にやられちゃってたからです、酔っぱらってるのと同じです、自己陶酔みたいなもので、自己憐憫とも言えるし、あまり人にそういう部分を見せるものじゃないと、いまなら思います。まぁ若かったんでしょう。
熱が冷めると、なんだ、という感じですが、酔っぱらってるので、その時は分からない状態になってるわけです。
また、ジョン・アーヴィングとの対談を何処かの雑誌でやってましたけれど、その当時も、アーヴィングが言う「読者にもっと読ませて欲しい」と思わせなければダメだという趣旨の発言に同意もしていたと思います。それとは別の何処かで、高橋源一郎は、ラストを決めてそこへ感動させるやり方を批判、というよりは下品という趣旨の発言をしていたのを覚えていますし、全く同感です。とは言え「ガープの世界」は好きなんですけれど。その後「未亡人の一年」という主要登場人物がほぼすべて作家、という作品を読んでからは、もう手を出す事はあるまい、と思いました。作家が作家とは何か?とか考えちゃうと袋小路に入っていく、とか言ってたのはスティーブン・キングだったような・・・
読む前は、レイモンド・カーヴァ―の作品のように、そしてそれに影響を受けている村上春樹作品のように、短編を基にした長編、というような事なのかな?と思いました。それを源一郎は、物語が新たな結末を求めている、というような事を言ってたけど、比較的最近(と言ってもけ10年以上前ですけど)カーヴァ―関連の本で、実は編集者にかなりカット編集されたものが短編で、それを快く思わなかったカーヴァ―が中編化したものが、後から出てくる、という事だったようです。でも、どっちが好きか?と言われると、確かに短編の方が出来が良く見えます。編集者って大切。
それでも、短編ではなく長編の書き換えってどういう事なのかと思えば、雑誌に掲載はしたけれど書籍化していない作品の長編化で、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」になっているのですが、その雑誌掲載作品を基にした長編化です、と作者があとがきで語っています。
あとがきはあっても良いけど、作品について作者が何かを付け足すのはどうなんだろう、とは思います。無粋って奴ですし、そうご本人も書き記している。
でも、そういう事のようです。
で、本作と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は基になった作品は同じなわけです。なので、どうなのか?と思ったのですが・・・
基本作品のネタバレはしません、というか、村上春樹作品にネタバレも何もないんですけれど。
まず、好きな人には新たな未読の作品が出来たわけで、良かったですね!
読みやすくて、何処か不可思議で、この主人公は私だ!(もしくはこの作品を一番理解しているのは私だ)と思わせてくれるのはなかなか楽しいモノですし、それが自己陶酔でも自己憐憫でも、誰にも言わなければ読書体験は基本1人でするものですし、隠れてやってれば何も問題ない。
それに私だってそれなりに楽しんでは読みましたし。しかもこうやってここで文章化して出してるわけで自己顕示欲求があるのも事実。そういう自己憐憫とも言えるし、自己承認とも言える。
また、読まないで何となく村上春樹作品が嫌いな人は、こっちじゃなく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでみたら良いと思います、多分合わない人には全部読めないと思いますけれど。もちろん無理して読むべき作品なんて無いし、みんな好きな作品を読めばよい。でも批判は読んでからの方が良いと思います、確かに目に触るけれどね。扱いが大きすぎるし、文豪とは思わないけれど、息の長い作家活動をしているわけで、それもここまで他国に翻訳されている作家なので、こういうのが好きな人は世界にもたくさんいるんだと思います。そう言う意味でニュースになる同時代の作家ではある、好むと好まざるとに関わらず(←凄く村上春樹さんっぽく言ってみた)。
でも海外に翻訳させている作品の中には処女作「風の歌を聞け」(架空の作家を使ったスケッチ風の中編 とは言え、凄く新鮮な、消毒されたかのような、英文から翻訳しなおしたかのような文体が眩しく見えたのも事実)と続く「1973年のピンボール」は翻訳を許していないんですよね。そう言う所も凄く、障る感覚があります。これと似ているのはオーチャードホールの25周年ガラ公演 伝説の一夜 の総合監修をした熊川さんが、自分以外のダンサーの振付を全て、自分で行いながらも、自身の踊る作品の振付はローラン・プティの「アルルの女」にしたのと似ていると感じました、それと興行側から「伝説の一夜」って言うのはどういう感覚なんだろう、とは思う。
それに何かの全集だかの刊行に際して、編集者が勝手に「1973年のピンボール」をその中に入れたのは確かに悪いし、作者はどの作品を何処に載せるかの権限は持っているんですけれど、それでも、という一件は、凄く記憶に残ってる。そういう人なんですよね。
斉藤美奈子さんも言ってたけど、そもそもW村上って表現がおかしかったし、名字なんて本質に何も関係ないし、村上龍と村上春樹を比べても意味ないと思う、対談本も出してますけれどね、この2人。
ここ最近の作品は読んでないけれど、ええ、みんなが知ってる、いつもの村上春樹作品世界です。
ですが、私はなんでこの作品を書いたんだろう?が全然納得出来ませんでした。
明らかに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の方が作品として、レベルが高いし、読ませるし、ある種の自己否定の二重性みたいな事を扱ってて、伏線も良いと思いますし、表記も良いです。レベルが下がって感じましたし、なんか、無駄に、本当に無駄に長い・・・
ある意味今までもそうなんですけれど、主人公にとって都合の良い人間しか出てこない・・・それは同じなんだけれど、今回はさらに、主人公の為に作られた、都合の良い人間が複数出てきて、なんだかなぁ、と思います。本当にどうしちゃったんだろう。
編集者は何かもう少し、意見を出せなかったんだろうか?
今度こそ、もういいや、となってしまった。

多分、自分の為に出したんだよね・・・あとがきでもそう感じる。

 

アテンションプリーズ!

あまり、どうかな、とも思いますが、自分の記録の為に、一応残しておこうと思って。ここからは割合ネタバレを含むので、未読の方はご遠慮ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ネタバレありの感想としては・・・

あとがき、で凄く言い訳めいてホルヘ・ルイス・ボルヘスを引用して『1人の作家が一生のうちに真摯に語る事が出来る物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られたモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に置き換えていくだけなのだ』とおっしゃっています。
うん、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」を引用している訳ですし、今までの作品群もそうであったように、ファンタジックな部分を、ファンタジーではなく、あなた(読者)にとっても精神世界のリアルな(意味が反しているのは理解していますが)世界として、マジックリアリズムというジャンルだと思ってね、忖度してね、と言われているように感じる。
もし本当に、マジックリアリズム的に読んで欲しいのであれば、小説というスタイルの文章の中で、マジックリアリズムとは表記しないで、そう読ませて欲しいし、それが小説家の仕事のような気がするし、初期作品では出来てた気もするんですよね、ある種の村上春樹ワールドとして。でも今作でそれが成立しているかどうか?凄く微妙・・・
モチーフも、凄く勝手に、これまでの作品を読んできた読者なら、想像出来る。逆に言うと想像出来なかった、つまり新たなキャラクターたちが全然魅力的じゃない上に、主人公にとって物凄くご都合主義的なキャラクターになってしまってて、醒める。
主人公はいつもの通り名無しの、読者の誰もが自分だと思い込みやすく出来てるいつもの主人公ですし、16歳の少女は精神的な問題の抱え方や純粋に歩くの含めてノルウェイの直子でしょうし、コーヒーショップの店員の新婚旅行については回転木馬のデッドヒートの嘔吐のモチーフでしょうし、真四角の部屋は多分井戸の底なんでしょうし、とか細々とそういうのがたくさんあるから、ある種補完出来るのは強みでもあるんでしょうけれど、逆に、唐突なキャラクター(とは言え知らない作品もかなりあるから個人的な印象の話しですけれど)子易、イエロー・サブマリンの少年という非常に飲み込みにくいキャラクターの違和感が強い。
自分の名前すら表記がされないのに、子易さん、図書館の添田さんは名字の表記があるのに、イエロー・サブマリンの少年はM※※表記って、まぁ何かしらの意味はあるのかも知れないけれど、全然汲み取れないし、今作はそのような、汲み取れない事、が多いと感じる読者からすると、その汲み取れない事についてはどちらが本体かワカラナイし入れ替わる事もあるし確定しない事を『忖度』してくれ、これが私の考える物語であり、そう言うモノだと受け入れてくれ、というメッセージがそこかしこにあって、凄く、都合がいい。この辺がこの作品であり村上春樹作品の弱点でもあると思います。
それに言いたかないですけれど、物語の結末やカタストロフィと言う意味で今作は何も決着しないし、自分から何か?犠牲になったわけでもなく、周囲の人が様々に助けてくれるわけです。本当に困ってても、夢が助けてくれる・・・でも、16歳の少女に何が起こったのか?全然分からないし、決着はつかないし、16歳の女の子が街を作り上げ、そこに自分も加担しているのに、その責任を負っていない上、さらなる他者であるイエローサブマリンの少年(なげぇ、名前があれば・・・)に責任を被せているし、出てくるのであれば、こんなに重要な役目で出てくるなら、2章の頭の方でももう少し含みを持たせて登場させておかないと唐突過ぎないか?とか、子易さんだけ魂的に幽霊になれる理由は?とか都合よく消滅しちゃうのはどうして?とか墓参りってそういうキャラクター今までいたっけ?そんな事するようなキャラクターに違和感すら感じましたし、突然いなくなってしまった女性を想うのはいいとして、40歳までいくと、ちょっと純粋性じゃなく執着な感じがしてしまったり、と今作は全然乗れない上にとにかく無駄に長いと感じました・・・
でも今に始まった事じゃなく、初期作品の中に出てくる、フォルクスワーゲンのラジエーターをうんぬん、という表記があって、現実世界ではフォルクスワーゲンにはラジエーターは無い、という読者からの指摘を受けて、作者は、この小説の中ではラジエーターがあると思ってください、そういう小説内世界だと思ってください、という弁明をしていたのと同じだと思う。
それに、表記を変えてなんとか新しくしようとしているのに、逆に分かりにくくなってる箇所も多くて、一角獣が単角獣というぼやけた表記になり、門番は門衛となり抽象性が増しているようですし、退役老人は大佐の方が想像しやすいし、割合難しいキャラクターであった発電所の男は存在を消され、壁を超える鳥という存在もなくなり、ギミック的にも下がってるという他ない。
子易さん、主人公にあまりに都合の良いキャラクターで、それはイエロー・サブマリンの人も同じなんですけれど、それでも、もう少しそのキャラクターの説得力みたいなものがあったと思います、五反田くんだって、羊男だってもう少し深みがあった。それが衒いなく、主人公にとっての救いを与えてくれるキャラクターでしかないのは興醒めというか、劣化というか、老化。
明らかにレベルが下がった作品を、今どうして出すのかなぁ、編集者は仕事してたのかなぁ、大御所になると編集さんも意見が言えなくなるでしょうし、出版不況も極まれりという時代に名前だけでも売れる作家の新作となると『忖度』があったのかなぁ。
個人的には、老いた、そして老いを認められなくなったのだろうな、という読後感でいっぱいです。作家は長生きして良作を出す人もいるけれど、そうでもない作家もいるでしょうし。
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