井の頭歯科

「BUTTER」を読みました

2025年7月16日 (水) 09:32
柚木麻子著     新潮社文庫
最近の本でとても評判が良かったので。そしてかなりの力作だと感じました。初めて読む作家さんです。
そして実際の事件を参考にした、というよりは、そういう事件があったという、その枠組みを用いて発想した、という方が高い気がします。そして、本当に作家が書きたかったモノが何なのか?を考えているのですが、どうにもまとまらない感覚があります。
正直、あまり興味を覚えない事件である2007年から2009年にかけての『首都圏連続不審死事件』(名称はwiki情報です、木島佳苗が被疑者で裁判は最高裁まで争われましたが、死刑が確定しています。但し、2025年7月現在、未執行)という事件の枠組みを使ったようです。読後に、調べてみると、正直、全然違う事件に見えました。そしてこの木島佳苗なる人物の、手紙を書き起こしてブログで公開していて、BUTTERというこの著作の柚木さんなのか、新潮社なのか不明ですが、獄中に知らせているのですが、木島はかなりはっきりと不快感と、その後に激高していて、ちょっとこの人物をモデルにしているとは思えないです。参考文献にこの木島本人のブログや、接見についても書かれておらず、そして本文中の登場人物たちが繰り返し、気になっているのは、とても、とても、ワイドショー的な反応について、なんです。
ここに何かあるのは分かるんですけれど、そんなに強い感情なのか?という疑問は残ります。
梶井という中高年男性に金を貢がせ、豪華な暮らしをしていた女が、3名の不審死をきっかけに逮捕拘留されて裁判が進んでいます。男性週刊誌の記者の町田里佳は、梶井にインタビューする為に・・・というのが冒頭です。
現代2020年代の働く、そして主婦だったり、形は様々なれど日本で生活する女性の為の物語です。
そこでは非常に息苦しく、差別にさらされ、女性というだけで、男性がしなくて良い事をさせられたり、欲望に対しての迂回を求められたりしているわけですが、そこに非常に特異な存在として、梶井が存在しています。
大変豪華な生活を送り、自身では働かず、男に貢がせ、美食をし、容姿を気にせず、それでいて事件が起こると、それぞれ様々な人達が強い関心を寄せます。
男性にとっても、気になる存在であり、女性にとっても謎な存在。そして、その本人へのインタビューをし、曖昧ではあるものの、社会的成功を手に入れたいと目論んでいる町田里佳。
またその親友で、社会的な仕事をきっぱりと捨て、専業主婦になり、一戸建てで夫と拙い生活を始めたばかりの町田里佳の親友である、かつての映画会社広報を担当していた伶子。
そして3名の男性殺害の被疑者である梶井の3名の女性を主軸に、物語は女性にとっての、生活とは?男性という生き物の不可思議さ、女性の連帯とは何か?恋愛とか、社会的地位についての男女差等々、トピックはいろいろあるものの、テーマとなれば、家族と男女関係と生活と食事、という事になると思います。
多分食事は、新しい要素ではないか?とは思います。
で、梶井という人物がにどういう態度や姿勢を取るのか?で登場人物たちが引き裂かれていくんですね。
私には、梶井が、非常に自己顕示欲の発露と、自意識肥大の視野狭窄な幼児的な人物似見えました。
が、貢がせるという、何というか古い習慣を持ち出してはいるものの、主婦業へのアンチテーゼみたいで、なるほど、とは思いました。恐らく、まだ現実を知らない場合、女性側から、貢がれて当然、とか、対価を払わずに豪奢な暮らしをしたい、と思う人はいるとは思います。
ですが当然男性側も現実を見ずに、家政婦としての妻を欲していたりする人も居ると思います。
そこに、貢がせつつ豪奢な生活を送る、容姿にそこまでの理由を見出せない存在、に対して、不信感や羨望など複雑な感情が生まれているんだと思います。
梶井が言う「女神」理論は、まぁほとんどの人が納得出来ないと思いますし、正直、老齢男性への性的なサービスの一端、という認識も取れなくはないのですが、梶井側から見ればそれが「女神」論であるだけですし、そもそもかなり奇異な関係です。
なので、なんでここまでこの小説が読まれているのかと言えば、そこにサスペンス要素と、食文化が加わってくるからです。
で、食文化の方は、割合、B級グルメ的な、そして女性版の「孤独のグルメ」的な所からスタートし、最終的にはちょっとびっくりするような地点まで到達するのですが、ネタバレの無い範囲であまり言える事は無いです。
シスターフッドを定義を調べてみると
sisterhood
1姉妹。または姉妹のような間柄
2共通の目的を持った女性同士の連帯
という事のようです。なるほど。そういう意味では、確かにシスターフッドモノとも言えます。が、共通の目的、という部分が、やや違和感を覚えます。そして、この物語の結末が、どう解釈するのが良いのか?凄く悩むわけです。
ただ、非常に力作である事は間違いない。そして食文化的にも、面白いです。
食事に対しての細やかな描写は、流石です。繊細で勢いもあり、試してみたくなる事ありますね。
実際の事件は、正直調べても、あまり興味がわかない事件でした。興味が辛うじて沸く部分としては、何故関係を断ち切り、連絡を辞め、その代り金銭を諦める事が出来なかったのか?正直検察の証拠、裁判調書を読んだわけでも判決文全文を読んだわけでもないのですが、割合状況証拠が大きく、そこまでの確実性は感じなかったですが、木島が、実際に、関係を断ち切るのではなく、金銭授受を理由に、殺害(自殺模倣)を思いついても実行するか?の部分が気にはなります。なにしろ次のカモを見つけて行ければ良いはず。でも、その選択は取らずに殺害を決意するその動機は気になります。ですが、凄い小物感しか感じない事件だと思います。容姿は重要でしょうけれど、いろいろな好みを持つタイプがいるわけで、しかも当時の木島の年齢は34歳で、相手は、53歳、80歳、41歳とばらつきはあるものの、自分よりは年上です。そう、若いに価値がある、をしているわけです、好みの問題やそれこそ金銭的な裕福さが無ければ成立しない、非常にレアケースだと思います。
で、ココからはネタバレありの感想になります。
アテンション・プリーズ!出来れば未読の方はご遠慮くださいませ。
さて、登場人物の中で最も、私からするとサイコパスに、異常に見えたのは伶子なんです。育った環境の特異性は認めますし、容姿端麗で美人の処遇でキツい部分もあったと思います。それは理解するけれど、町田里佳の仕事やその関係に執着して行動を起こすのは、もはや恐怖でしかないと思います。
で、梶井にまで接見して、周囲を騙して推理を進め、証拠を手に入れる為に単身乗り込み梶井を否定したい伶子の目的とはいったい何だったのでしょうか?
それは女性同士の連帯というモノではなく、伶子の町田里佳への恋に見えるんですね。もしくは執着。本文中でも町田里佳が男であれば良いのにまで書かれています。
そんな伶子が、単身乗り込んだ男性宅から救出された事で、喋れないほどの、精神的なショック、受けるモノなのでしょうか?
梶井を否定したい、梶井に近づく町田里佳を止めてこちらに振り向かせたい、という願望。それは愛ではなく恋的な執着に見えるんです。そして何故ここまで計画性があり、度胸もあり、執着もある伶子が、なんでこんなに精神的なダメージを負っているのか?がどうしてもよく分からなかった。
さらに、梶井が何かを仕組んで、町田里佳を社会的に抹殺しようとしたのではなく、ただ単に、突発的な行動の結果でしかなく、裁判傍聴をして事件に関心があれば伝わる内容ですし、ただ単に町田里佳を超える執着すべき愛玩が他に見つかっただけなのに、町田里佳もかなり落ち込むのですが、だとすると、記者としての覚悟というか、仕事のレベルが低い気がします。
何となく、町田里佳と伶子の連帯をしたいのだが、何の為の連帯なのか?がはっきり描かれていないから、のような気がします。伶子は夫の基に戻るし、町田里佳は中途半端にまだ梶井周囲の人へのインタビューを考えている・・・なにか釈然としないんです・・・
目的が一緒ならもう少し、ラストの団欒も違った味わいがあったと思います。というかサロン・ド・ミユコへの潜入辺りから、恐らく、この小説の終着点を探して、なんとか血ではない連帯を、新しい家族像を目指していたと思いますが、ゴールとして美しいのだけれど、あまりに早急な気がしました。
3000万円の買い物で、誰かが集まれる部屋数の多い家の購入。美しいけれど、かなり飛躍を感じます。もっと丁寧な関係性の変化が欲しかった。もっと伶子夫婦と町田里佳の関係性、出来た気がします。なんなら子供を含めた、里子を育てる話しを追加しても良かった。情報をくれる篠井さんに父性を感じているところから、恋愛関係にはなって欲しくなかったけれど、篠井さんが娘を家に連れてくるのに、娘が七面鳥を食べたかったから、だとやはりご都合展開な、気はします。1度どこかで出てきていれば、あるいは・・・そしてこの仕事関係や友人関係の連帯の、共有出来る目標みたいな何かがあれば、もっと良かった。
そして、娘と父親の関係性についても、そこまで感じ入るモノなのか?という疑問もありました。すべての男性がマザコンな訳が無いのと同じように、全ての女性が父との絆を感じなくても良いけれど、確かに町田里佳の場合はかなり特殊だけれど、病気というモノはなりたくてなる人は恐らくかなり少ない上に、日ごろの不摂生の影響は大きい。基本的にすべての死は救済でもあると思う。
血ではない新しい家族というか連帯、この発想は素晴らしいし、好きなんですけれど、もっと同じ目的性みたいなものが欲しかった。これだと、NPOのセーフハウスみたいな事で、これは必要だけれど、ちょっと違う、もっと、この10人だからこその、という目的というか目指すべき何かの共有が欲しかった。
ただ、この物語を読んでいる最中は、続きが気になって集中していましたけれど、振り返って考えると、何だったのだろう、という事からこの感想にまとめていますけれど、大変な力作である事は間違いないし、今まで読んだ事が無い作品でした。
謎がどうも解決しないのは、多分私が男だからなんだろうな、とは思うのですが。
女性の傾向として、相手にこう考えて欲しい、というのがある気がします。でも他者の考えを強要する事は出来ないし、望むだけ失望する。それでも考えてしまうのは、共感があるからなのだろうか?
永遠に分からないけれど、それでいい気がします。恐らく誰とも完全な相互理解など出来ないし、それは一瞬の希望であり、過ちなのでしょうから。
町田里佳と伶子の連帯できる目的があればもっと良かった。
エシレバターって美味しいですよね

「春にして君を離れ」を読みました

2025年7月9日 (水) 09:20
アガサ・クリスティー著    中村妙子訳    早川文庫
これもSNSで見かけたオススメだったので読んだのですが、55歳の今読んで理解出来る感覚の本でした。
クリスティを読んでいたのは小学生から中学くらいです、中でも最初期は、そして誰もいなくなったとオリエント急行殺人事件が好みでしたし、小学生の頃から、映画館でポアロ関係の映画を観ていたので、かなり読んだ作家だったと思います、特に有名な作品と、名探偵が出てくるのであれば、読んだと思います。
その後大人になって、アクロイド殺しの別な見方があると言う話しから読み直してびっくりしたりしましたが、この作品は名前も知らなかったです。
イギリスの、地方弁護士ロドニー・スカダモアの妻であるジェーン・スカダモアは3人の子供も巣立ち、末娘であるバーバラが夫とイラクに赴任して病気である事を知り、イラクに駆けつけ、全てを世話してやり、イギリスへの帰途に就いたのですが・・・というのが冒頭です。
なんというか、読み始めた当初は、かなり鼻持ちならない女が主人公の、変な話しで、何処に転がっていくのか?分からなかったのですが、驚くほど精緻に組み上げられている、ある種のミステリーです。
私個人が、この小説をミステリとして捕える事で興味を持っていただけるのであれば、7章が終わった部分、8章の始まる前に、読者への挑戦、というページがあると思ってください、と紹介したいです。
この読者への挑戦は、犯人を当てろ、というモノではなく、この物語はどんな着地を見せるか?予想して欲しいのです。ある程度、当てる事は出来ても、完全に当てる事は不可能に近いと思います。
でも、ある種、人生の経験を踏んでいないと、理解が難しい小説かも知れません。ジェーンという女性を主人公で語り部でモノローグで書かれていますが、私は恐らく、ロドニー視点で読んでしまったかも。そして、非常に感銘を受ける話しでもあり、解説であの、栗本薫が、読者にさらに余韻を与え、考えを巡らせる話しをしてくれます。
それにしても現実、生活の持つ『変化を嫌うチカラ』の恐ろしさを感じます。それも50代の人間には、とても重みをもって感じられます。あと個人的性格にもよるモノだと思いますけれど。
哀しみ、を細かく描き切った傑作。
果たして、最後まで読んだ後、夫の言葉を読んでなお、ジョーンは幸せと言えるのだろうか?読後に伺ってみたいです、私は、一つの形ではあるモノの、自分は耐えられないであろうと思いますし、特に紳士と淑女の国であるイギリスであれば、より、キツいと思います。
そして、ロドニーの生は幸福であったのか?についても、聞いてみたい。
子供を育てた事がある方に、そして子供を育てた事が無い方に、若さが失われた自覚のある方に、オススメします。
ここからはネタバレアリの感想の感想になりますので、未読の方はご遠慮ください。
ネタバレありですと、まず、かなり最初、それこそキーになる人物ブランチ・ハガードとの会話で、この主人公であるジョーンが好きになれませんでした。凄く一面的な評価で、もちろんクリスティーも、そう思わせるように書いていると思います。とても他者を見下ろし、自分を女性の勝者としての価値観という物差しから離れる事が出来ない視野狭窄の、しかし、時代的には間違いなく主流で、保守的な上流階級からは支持されそうな(とは言うもののジョーンは上流階級では、無い)思考の持ち主。思考の死角が存在する事さえ気づかない、とても幼いまま年を重ねた女性で主婦に見えました。
だから、最初は読み進めるのに時間がかかりましたし、何か事件が起こるのではないか?とも、クリスティーだからこそ、思ったわけです。
しかし、これは凄く女性的な話しでありつつ、非常に突き放した、信用ならざる語り手、とも言える作品。
思索にふけるにつれ、何となく、これはジョーンが自立する話し、春にして君を離れ というタイトルからして、離れる話しなのかと思いきや、自覚を感じ、恥じ入り、謝罪の気持ちが芽生え、やり直そうとする意識まであったのに、日常、彼女の望む通りの世界に、真実ではなくジョーンにとっての清らかな世界に戻るのを見た時、映画「マトリックス」で主人公を裏切るサイファの事を思い出しました。苦い真実よりも甘美な虚構を受け入れるのは、理解はできる。理解はできるが、このジェーンの場合の選択は、全く受け入れられなかった。
ブランチ・ハガードへの軽蔑、自堕落と切って捨てる感覚、自分は上手く夫を見つけ、その仕事に金の面での差を感じ取って、農場ではなく弁護士をさせた事を、誇りに、思っているジェーンの鼻持ちならなさは、その周囲の人間からの、上辺だけの関係性を、自分だけ信じ込めれば、理想的なのかも知れませんし、実際の所、そういう人も多いのだと思います。
細かな伏線を回収しつつ、一人の人間の在り方を問い、見せ、考えさせる小説で、しかも上手い。冒頭の展開、素晴らしいと思いますし、どんな人物なのかを、非常に端的に示せる出来事。その上、また世界の半分を敵に回すんだけれど、女性的だと私は思います。
ロドニーの悲劇性について考えていたら、解説の栗本薫の指摘、確かに共犯関係!凄い小説。そして解説。
栗本薫の『レダ』ってこういう作品からの影響についても考えさせられる。

「クララとお日さま」を読みました

2025年6月25日 (水) 09:41
カズオ・イシグロ著     土屋政雄訳     早川書房
いろいろ読んではいますが、読めなかった作品もある方。「充たされざる者」は途中で挫折しました・・・あと「わたしたちが孤児だったころ」はスルーしてしまっていましたが、久しぶりに読みたくなり手に取りました。
AFという子供むけロボット(?)であるクララは最新鋭機では無いものの高い洞察力を備えています。そのAFであるクララの一人称で語られる、病弱なジョジ―との物語です。
流石、カズオイシグロ作品。ある種徐々に分かる様になっているので「私を離さないで」「日の名残り」に近い構造にはなっていますが、ついに人物ではない語り手になって、さらに想像する余地を広げる感覚があって、なるほど、と感じました。
様々なテーマを織り込んでいますし、凄く多層で多様な作品。ざっと感じたままに挙げると、共感、機械と命の境目、分断、遺伝子コントロールの制限、過去との関わり、エゴ、宗教、信仰、崇拝、倫理、本当に様々です。
恐らく、近未来の世界を描いていますけれど、もしかすると、この世界では無い世界を描いている可能性すらあると思います。
そしてあまり踏み込んで説明されない部分に、より読者が考える、能動的に取りに行く仕掛けが素晴らしいと思います。誰にでも分かる様に、も理解はしますけれど、ホモサピエンスなので、自分の解釈があって然るべきだと思うのです。そういう意味でホモサピエンスに、テレビのインパクトは大きかったけれど、罪の部分も大きいなぁ、と思います。とても分かりやすさを目指してしまったのは、結構罪深い。説明される事に慣れ過ぎてしまった。
クララの行きついた場所。その悲しみを考えてしまいます。
宗教についても、かなり深く考えさせられる書籍。アニミズムの発祥についても考えさせられますし、なんというか、結果が全く違った場合であっても、恐らく、周囲を含むクララの行動は変わらなかったのではないか?とも思うのです。
ここからは、少しだけネタバレに繋がる感想も。出来れば未読の方は控えていただきたいですが。
凄く、今を予言していたとも言えますね・・・2017年の作品ですけれど、強い分断を、というか分断の仕組みがどのように成り立って行くのか?を描いた作品でもあります。
ホモサピエンスに、しかも人的に、後天的に、能力を付与する事で、得られたのは向上もあるけれど、より強い選民意識が生じ、それが分断を呼ぶわけです。人的にも力を付与する事で、確実に選民意識が生まれる、しかもそこに貧富の差の中で、能力の付与に一定のラインが生まれている。これは既に、貧富の差があるだけでも、学習に差が生まれている今の社会と何ら変わらないわけです。
そんな中でホモサピエンスではない、つまり人権すら与えられていないロボットの立場も、ロボットというだけで差別されたりしていますけれど、これ移民だったりの暗喩にも取れますし、何なら最も命令に忠実で親切心があるのは、この登場人物たちの中ではAFだったりします。母親もジョジ―も出てくる登場人物の人間は、とてもワガママで自己中心的です。
ロボットではあるものの、個性がある。そこに意識がある。プログラミングされているとはいえ、動き出した、経験を積む時間的経過が存在するこの意識を、私は生命としかとらえられなかったです。
そのAFの信仰、そして祈り。私はこの祈りなり崇拝と自己犠牲を厭わない行為が、まさに利他というホモサピエンスの行動に見えました。だから、奇跡が生じたこの物語の道筋は美しく見えるし、その結果のクララの行き着いた先の落差に悲しみます。
本当は奇跡が起こらなくとも、祈りと自己犠牲の行為の尊さに遜色はないと思うのです。
とは言え、祈る姿勢そのものは理解出来るのですが、本当の所、祈るのは最後で、その前に、出来る事をすべてやり切ったかどうか?が重要だとも思うのです。感情としては祈りに理解はあるけれど、祈る事だけで成就する事はあまり無い事も理解出来るからです。
それでも、内発的に、どうしようもなく、祈る事はあるけれど。
クララの幸せがジョジ―の成長であったのならば、クララは幸せだと思う。しかし、その境遇はあまりにも厳しく、何を命と考えるか?で私は複製や代謝や進化や次世代に繋げられるという定義よりも、利他の動きが取れるモノを生命と感じてしまう事を理解出来た気がします。

「鬼の筆:戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」を読みました

2025年6月14日 (土) 08:44
春日太一著     文藝春秋
橋本忍脚本作品で観ているもの、観ていないもの、いろいろありますが、何を持って戦後最大とするか?にもいろいろ疑義はあろうかと思いますが、最大級というのは間違いないでしょうし、春日太一さんの解説、鋭く面白いので読もうと思っていました。
が、なかなか手に入らない・・・リアル本屋さんにあまり並んでいません・・・または少数しかリアル本屋さんに回ってこないのかも知れません。ちなみに新宿紀伊国屋で購入出来ました。
橋本忍脚本の映画の最初って、いきなり羅生門なんですよね!驚愕!とてつもないスタートです。その前に伊丹十三監督のお父さんで脚本家の伊丹万作に師事しています。これも驚愕です。全然知らなかったです。
脚本家として職業にするまでも少し時間がありますし、その後も黒沢作品の重要な「生きる」と「七人の侍」を書いていまして、まぁ凄いです。
しかし橋本氏本人は、伊丹万作に師事、黒沢作品に脚本を書いているのに、評価が低い、と感じていたそうです。これも驚愕。ある程度理解はしますけれど、まだ全然駆け出しの頃であっても、非常に強気でプライドが高く、ギャンブル性があり、山師的な感覚を持っている事が分かります。
数字に強くて、そしてどちらかと言えば、興行を優先して考えていた、というのも意外でした。でもだからこそ、脚本家、だけでなく、プロデューサーや監督作品もある人なんですね。
春日さんもかなりの回数、時間、インタビューされた模様で、確かに素晴らしいインタビュー、資料を基にした、脚本家だけではない橋本忍像が分かりました。
そして、春日さんの目を通しての、橋本忍像が理解出来て、何となく、この時代だから受けたのではないか?と感じてしまいました・・・今までの脚本だけで観てきた橋本像から感じていたのとは全然違いました。だからこそなのかも、ここまで売れて、作品を生み出せたのだと思いますけど。
そして春日さんが橋本忍本人から語られ、示された資料の数字、その予想、全部とは言わないまでも、全然根拠が感じられない、それこそ空想の域を出ない数字でもある可能性、そして時流を掴み損ねた、というかそもそもの本人の志向が時流と合っていればヒットしていたかのようにも感じられます。
そもそもの志向が、この時代の大衆に響いていて、だからこそ新しい、本人のやりたい事をまとめて入れた「幻の湖」が、トンデモな作品になってしまったのではないか?と個人的には感じました。体力や年齢ではない、私は数字に強いとかヒットさせてきたという自負が、目を見えなくさせて時代の流れも掴みそこなってしまったんじゃないか?と。そうでないと、ここまでの大作で変作にならないですよ・・・どんなに強がって見せても、これはダメ過ぎます。つまり、徳に「幻の湖」に意匠は無かった、という事になります。
この事を持って、私はたった1作の失敗、ではなく、非常に運のよい、もちろん脚本の仕事で素晴らしい作品はあるモノの、橋本忍本人の資質に興味が無くなってしまいました・・・
作品で言えば、「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」、「隠し砦の三悪人」など黒沢作品、残るでしょうし、小林正樹監督作品「切腹」も本当に素晴らしい。しかし、確かに超大作ですけれど「八甲田山」や「日本沈没」は当時の時代的価値、文化を残す側面や素晴らしさはあれど、作品としては、やや劣りますし、流石に「幻の湖」については、これは反論出来ないここまでの作品を作ってしまったとなると、いかに時流を捕まえるのが上手かったか?の方が強く感じられます。
それでも本当に凄い脚本家ではあります。そして確かに腕力、勢いの作家性はあると思います。そしてもちろん、その脚本の腕力が無ければ成立しないかも知れませんが、それを完成させる監督や演者、スタッフが揃ってこそ、腕力が可視化される。
脚本は私は映画を構成する要素の中で最も重要だと考えていますし好みなんですけれど、やはり脚本家としては山田太一さんの方が好みです。
「幻の湖」「羅生門」「七人の侍」「私は貝になりたい」を観ている方にオススメします。

「夜の来訪者」を読みました

2025年6月11日 (水) 09:26
プリーストリー著     岩波文庫
とある配信を観ていて、良い文学作品の例のひとつに挙げられていて、しかも全く知らなかったので、手に取りました。そして、読み終わって非常に素晴らしい作品に触れられて感謝しています。1912年の戯曲ですけれど、本当に凄い。やや、やり過ぎに感じるかも知れませんし、今観ると演劇的な予見は出来るかも知れませんが、当時は非常にセンセーショナルに迎えられたと思います。
またこの作者や態度を左翼的という批判はあるだろうと思いますが、何をもって左翼的なのか、かなり微妙に感じましたし、階級社会の中で、しかもイギリスで、紳士的な事を善しとする文化の中で描かれている事を考えると、単に左翼的とは言えないのではないか?と思いました。もっと大きな事について、実際に警部に言わせていますし、そここそがテーマ。と私は感じました。
アーサー・バーリング邸ではその娘シーラと、アーサー・バーリングとは同業者であり同じく工場主で階級社会ではより上のサー・ジョージ・クロフトの息子であるジェラルドの婚約の宴が、父バーリング、妻シビル、娘シーラ、息子エリック、そしてジェラルドの5人参加して開かれています。食事も終わり給仕であるエドナが食器を片付けている所に・・・というのが冒頭なんですが、非常に演劇的で上手いです。
私はどんでん返しが強すぎると、どんでん返しという刺激に麻痺してしまい、もっと強いモノを!という傾向に強い危機感を感じます。何故なら、どんでん返しの為の、どんでん返しが多すぎるようになってきていると感じるからです。あくまで、どんでん返しは結果であって、作為的に作られると、それは作者の都合で組み込まれているだけじゃないか、と感じてしまいやすいと思うからです。
どんでん返しの、為の作品は、志が低い、という事です。もっとテーマやキャラクターが生きて、その上そのテーマやキャラクターに関連がある出来事や事柄が、ひいてはどんでん返しに見える、というモノが望ましいのではないか?と思うのです。
この1921年の作品はそういう作為を、感じにくいです。もちろんテーマに沿って展開していますし、驚きがありますけれど、おそらくそれよりも、警部の退場の際の言葉を言いたいが為に作られた作品。
これ、現代に設定変えられないですかね。凄く面白そう。で、多分家族の話しにするのは難しいし、SNSも絡めたいです。
何となく、学会、それも社会科学的な学会で集まった世界各国の代表的な5名に対して、とすると面白そうなんだけど、捜査権的な存在が難しい。
結局国家を超える統治権力は存在しないが、その国家の統治の限界は露呈していて、企業資本は恐らく国家よりも強く、国家を超えて資本を移動できる。その事だけでもどうにもならないのに、国際的な枠組み、に拒否権がある状態で、そもそも常任理事国の権利が強すぎる問題も解決できてないので難しいですかね。
それにしても見事な脚本でした。
善性について考えてみたい方にオススメします。
それと、この来訪者って言葉、私がタイトルに出てくる作品で知ってるのってもう1つしか無くて。という事は当然、この作品のタイトルから取られているんでしょうね。
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