井の頭歯科

「嵐が丘」を読みました     Wuthering Heights

2025年9月19日 (金) 09:03
 
エミリ・ブロンテ著     小野寺健訳     講談社古典新訳文庫
まず、古典作品にもう少し触れても良いのでは?という気持ちが常にあります。趣味は読書、と言えた時代もありましたが、老年になってもう少し触れておけば良かった、と後悔しています。なので、何処から手を出すかなんですが、エメラルド・フェネル監督が来年マーゴット・ロビー主演で映画化されると聞いて、興味を持ちました。
あと、古典の中でも比較的名前が有名。嵐が丘、名前が強いです。そして、何の予備知識も無いです。何の話なのかも知らなかったです。私が読んだ事がある古典作品って、レ・ミゼラブル、カラマーゾフの兄弟、アンナ・カレーニナ、ボヴァリー夫人、カフカは城とか審判とかいろいろ読んでますけど、スタンダールもトーマス・マンも読んでない、文学弱者です。
でも考えてみると、何が古典なのか?結構複雑。オイディプスとか三国志は古典で間違いないでしょうけれど、シェイクスピア作品って1600年辺りだったような・・・それだとしてもたかだか400年前で、これを古典と呼んでよいのか?微妙。で、wikiで調べても、確実に、こう、と定義付けられていません、おそらく、文学的評価の定まった作品を、古典文学と呼んでいるのだと推察されます。
だとすると、名前が有名な「嵐が丘」も当然古典文学に入るでしょう。それにイギリスの文学は、それこそ「高慢と偏見」で有名なジェーン・オースティンもいますし、最近読んだアガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」は最高の文学作品だと思いましたし、ウィリアム・ゴールドウィンの「蠅の王」だって素晴らしかったし、面白いに違いないし、知らなかった何かを知る楽しみがあるはず!
という期待値が高すぎたのかも知れません。
あらすじの紹介は他で見て貰うとして、いろいろ気になり過ぎる事が、たくさんあります。しかしどれもネタバレを踏んでしまう可能性が高いです。
アテンション・プリーズ!
ここからは、ネタバレありの感想です。未読の方はご注意下さいませ。
ので、ココからは「嵐が丘」という文学作品のネタバレと、あくまで文学弱者の私個人の感想が綴られますが、あくまで個人の感想です、作品を穢すつもりはありませんが、何で?どうして??があまりに多すぎました・・・そして非常に批判的な感想ですので、そういう駄文は読みたくない方はスルーしてください。感性の死んだ高齢者の文学弱者が戯言を述べているだけです。
文学作品の進歩の証、つまりまだ文学的な創意工夫が未熟だった頃のテクストとしての存在、とも言えると思いました・・・
まず、チョイスしたのが講談社古典新訳文庫で、これは読みやすかったから、です。冒頭をいろいろ岩波や新潮他数社比べて決めましたけれど、主な人物関係図、が最初に載ってて、しかも栞にまで、登場人物の名前と説明があって、イイ!これ!と思いましたが、作中の誰が、誰と結婚して子供が生まれるんだ、を知って読んでいると、全然楽しくないです、結果を知ってるのだから・・・
なんでこんな作品が現代にまで残っているのでしょうか?
そして、登場人物の全員が、頭が悪い、獣のような、その場の雰囲気と感情で行動を起こし、且つ、即直後に後悔する、みたいなのが多すぎる!!まるでおかしな行動を全員が取るために、凄く頭が悪い人、ばかりに見えるんです・・・
感情の波の高低差が激しく、毎秒毎に感情がかき乱され、精神的に安定している人が、ほぼいないんです・・・あ、何度も言いますが、私個人の感想です、この文学作品の評価を貶めるモノではありません。ありませんが、この作品の、何を、評価しているんでしょうか????
みんな都合良く、退場していきますし、都合良く誕生してきます。そして復讐譚とか悲劇とか言われていますけれど、どこに悲劇性があるのか?全然分からないです、私には。
恋愛の話し、確かにある種の恋愛の話しではあると思いますけれど、細部、何故恋に落ちたのか?何故その人を好きになったのか?の細部が全く書けていないと思うのです。もう全員が当然のごとく一目惚れ一択。潔ささえ感じます。で、それが作者の物語にツイストをかける為、にしか見えないので、稚拙(と古典作品に思う私のなんと思い上がった感想!でも思っちゃったんだから、そうとしか感じられないんだから仕方ない・・・)とさえ感じました。
唯一、執着の話し、というのであれば、納得します。でも、何故ここまでの執着なのか?と問われたら、説得力があるのは、
①ヒースクリフの育ち(孤児からの、実子よりも優遇された過程、その後のネグレクト せめて、何故実子よりも優遇されたのか?の理由くらいは明示して欲しい)
②キャサリンがエドガー・リントンと結婚を決めた事をネリーに語った部分をたまたま聞いてしまった
とこの2点だけ、ここだけは納得出来ますが、それも発端に過ぎず、そこから何がどう発展した、とは言えないと思います。その時の感情だけで、ここまで執着しますでしょうか?
なんというか、また世界の半分以上を敵に回すんですけれど、素直に感情を委ね、登場人物たちに感情移入しているのであれば、感情をグリップさせられて、身を委ね、感情をグリグリとコントロールされる心地よさ、あるかも知れません。が、あまりそのコントロールも上手くは無いと感じました。薄っぺらな表現で申し訳ないけれど、幼少期のホモサピエンスで書籍や文章を読み慣れない人なら、感動するかも。
娯楽の無い世界で、恋愛や人生を語れる時代の話しであれば、キリスト教がその世界の隅々までいきわたり全員がある一定水準以上信仰している世界であれば、話題になるかも知れませんが、恐ろしい事に、発表当時は全然売れても話題にもならなかったようで(wiki調べ)本当に、何故この小説が悲劇的で古典として生き残っているのか不思議。
レ・ミゼラブルのような世界観と広がりがあるのであれば、ホモサピエンスの普遍性みたいなモノも含まれますし、当然恋愛だの結婚だの生活の話しもあれば、政治や活動、信念、信仰の話しもあり理解出来るのですが、この小説はちょっと勢いに任せて書かれた、推敲が足りない印象を受けるのです。
物語で言うツイスト、予定調和を崩す、どんでん返しみたいな事も、伏線からの、というわけでは無くて、とにかくどんどん数で勝負みたいな感覚があり、整合性とか、あまり感じられません。そもそも婚姻関係とか法律関係、医療関係についてもあまり詳しくは無い印象なのに、結構重要なポイントで、さらり、とそうなった、となるのが続くと、どうしても続きが気になるというよりも、そうですか、となってしまいます。
がそれもこれも、本当に戯言であって、時代も違うし、読んでいる書籍も違うし文化も違う世界の話しを一方的に現代的視点から批判するのも筋違いでしょう。
入れ子構造で、語り手が出てくるまでの感覚と、いわゆる信用ならざる語り手、当時として新しかったと思いますし、斬新。
ヒースクリフという、白人社会に現れた、白人上流階層の教養を得る機会を得た、非白人というのも新しいかも知れませんし、粗野、野生の魅力をいうのも珍しいのかも。
また、悪魔とかサタンと言われるセリフが多いヒースクリフの、悪魔というダークな魅力、あるのかも。
と良い所を挙げたいのだけれど、全然出てこない・・・そもそもなんでヒースクリフをミスター・リントンが拾ってきて育てようと思ったのか?も不明だし、3年ほど消えてた間の詳細どころか雰囲気も分からない、この頃の階層を超えるのは、よほどの事だと思いますけれど、3年じゃ難しいと思うのですが、というか、この3年こそ、書かれるべきビルドゥングスロマンになりそうなのに、不明です。出自も不明なまま・・・
一緒に育てられた幼馴染で兄弟だけど血が繋がらない魂の連帯者、という妄想ももしかしたら新しかったのかも知れませんね。一緒に育ったのなら、もう少し兄ヒンドリーにも愛まで行かずとも、もう少し好意的な進言とか関りを持ってあげればよかったのにね。
でも、幼馴染で兄弟で血が繋がらない、幻想というと、まぁそんな事は関係ない、と言われるでしょうね。つまり感情、この作品が好きな人に何を言っても伝わらない気がします、議論にならない。
野生児の魅力とかもダメなんでしょうね。ヒースクリフの魅力はそんな低俗じゃない、と怒られそうです。幼馴染の血の繋がらない異性幻想も、きっと怒られるな。
ヒースクリフは、本当に、ヒンドリーに復讐出来たのでしょうか?だらだらと生き永らえた、とも取れるし、別にすべてを暴力で解決とは思わないけれど、野蛮な人で悪魔なんだけど、結構ヒンドリーに対して優しい、とも取れる。全然復讐な気がしないし、この登場人物たちは、かなり気が短く、思考よりも行動を優先するのに、殺す、とか痛めつける、とかの描写はほとんどない。血が流れる事も稀。ギャンブルを楽しんで野垂れ死に、みたいに見えるけど、どうなんだろう。
もしかすると、これがイギリスの、英国の田舎の閉鎖的な、因習的な感覚なのかも知れませんね。そういう意味での田舎の怖さはちょっとある気がします。
あと、神がいるから悪魔が対立構造として必要なだけで、ヒースクリフの執着が、悪に、なんなら愛に見えてる人、いるんでしょうね。私はただの執着だと思うし、みんな都合良く死んで退場するの、ご都合主義的に見えるけれど・・・
あと、貴族というか上流階級だからこそ、の自分はこうなんだから、こうしてくれて当たり前、感覚はかなり触りますね、紳士と淑女の国も、田舎はこんな感じだったのでしょうか?でも同時代の「高慢と偏見」のベネット氏は全然違ったような・・・
それと妊娠問題も、強い違和感。
妊娠に至る部分は、まぁいいでしょう。けれど、妊婦であるという情報がほぼでないで、ヒースクリフとキャサリンが最後に抱擁するシーンを頭に想像していたのに、急にキャサリンが亡くなり、同時にキャシー誕生、え、だとすると、さっきの抱擁シーンは妊婦って事??となり、本当に、萎えます。妊婦だから萎えるとかじゃなく、時系列的にも、作者のご都合主義に、萎えるんです。もっと上手く書いてくれよ・・・推敲が足りてないんじゃ、と邪推したくなります。
ヒースクリフのラストも、それと、キャシーとヘアトンの結末も・・・なんか内輪の話しばかりで、死ぬために登場させられてる感すらあるリントン・ヒースクリフの哀しみがより際立って感じますね・・・急にねじの回転みたいになるし。
この講談社古典新訳文庫の訳者小野寺健さんの解説でも、凄く嫌な表現を使うので引用しちゃいますけど
下巻 解説 416P
しかし、一度読んだだけでそこまでの理解に到達するのは難しい。魂の底の底を探って、えぐり出す精神の強さ鋭さは、著者が命がけで表現した質のものだ。
うん、魂については本当に何も言えません、私の魂があったとして、確実に低俗だもの。その魂を感じろ、Don’t Think Feelという事であれば感受性の無い私は多分無理で、だからわかんないんだと思います。Don’t Think Feelの考え方も諸説あるんですけれど、この場合は普通に、考えるな感じろ、です。
分からない私が悪い。
が、小説というジャンルの進化を感じる、古典としての何かを、感じました。まぁ同時代と言っても良い、ジェーン・オースティンには書けてるから、ちょっと違う気もするけれど。

「ババヤガの夜」を読みました

2025年9月12日 (金) 08:42
王谷晶著     河出文庫
出版は2020年で、その時、冒頭は立ち読みして、そのままにしてしまっていました。そして今年2025年に英国ダガー賞を受賞、という事で大変賑わっております。
ところが、私ダガー賞を受賞した作品を、読んだ事が無いし、ダガー賞を受賞した作品をそもそも知らない。で、ちょっと調べてみると、ダガー賞といってもゴールド・ダガー賞とインターナショナルダガー賞という風に分かれているようです(wiki調べ)。で、もちろんインターナショナル・ダガー賞を受賞しているみたいですね。ゴールドの次点でシルバーという受賞もありますし、マッカランが資本提携しているようです。
そしてゴールド・ダガー賞受賞作品ジョン・ル・カレ著「寒い国から帰ってきたスパイ」は読んでいました。
当たり前ですけれど、なんとか賞を受賞したからと言って、それが私にとって素晴らしい作品か?は別ですし、ダガー賞を知りもしないで、持ち上げるのもどうかとは思います。
読後に、1番びっくりしたのが、著者の性別が女性であった事です。そうか、そういう意味でなら、分かります。
そもそも、文章の書き手の性別が、作品の評価に決定的な違いが存在するのか?と、は問いたいですよね。優れた作家は優れた作品を残すし、普通の人が1作だけ何の前触れもなく素晴らしい作品を生み出す事もある、また、読み手にも成長や時期があり、全く分からなかった作品が年齢を重ねた事でよく分かる重要な作品になったり(10代の頃、ミステリをよく読んでいた時期では、アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」は全然分からなかったと思います)、考えが改まる、私はある事だと思いますし、これに気付けたのは鶴見俊輔氏の名著「戦時期日本の精神史1931ー1945」を読んだからですし、その前にある程度、先の大戦についてのある程度の見識が無いと、それも無駄に終わっていた可能性だってあります。選択の積み重ねが今の私なわけですし、忘れてしまう生き物でもある。
もちろん、なんとか賞の受賞を本人の作家さんが喜ぶ気持ちに水を差したいわけではなく、読書で理解出来るのであれば、自ら読んで判断したい、というだけです。当たり前ですが権威ある賞の価値と私一人の価値なんて比べるべくもなく。
ただ単に、いわゆる世界的な評価を受けると、急に全員が認めるのはどうかと思うだけです。宣伝、広告業、に不信感がある、全く信用できない、と思っているだけかもしれません。虚飾業だと思いますし、ね。
話しが長い・・・でも正確を期そうとするとこうなってしまいます・・・
友人に、読んでみたら、とオススメされたので読みました。
凄くバイオレンスな小説です。主人公の新道依子は暴力に惹かれて体を鍛えている女性で、ふとしたことからとある組織にスカウト(?)されて・・・というのが冒頭です。
これを、女性が書いている、そしてある種のバディを描いた作品として紹介するのは、よく分かりますし、確かにそういう部分もあるのですが、何となくミスリードな気もします。
基本的に読んでいただくしかないと思うのですが、ある2名の女性の連帯、バディ感、今まで見た映画小説の中では出てこなかった関係性で、新しい、と感じました。
で、これが、自らの発露であるのか、環境の為なのか?という部分はどなたか既読の方と話してみたい感覚あります。大仕掛けの部分については上手いとも感じました。でも、あっちの顛末も気になる。
なので、ネタバレありの話が誰かとしたいなぁ。
あくまで身体性の話しとして、男性は筋肉量が多い傾向にあるでしょうし、だから長所として、自らの利点である腕力を使ってきた歴史がありますし、その腕力を暴力に変えて、現状変更してきた歴史と言い換える事も出来ますし、なんなら今も面子のはなしで、大量のホモサピエンスが、腕力の先にある、銃器で、兵器で、人工的な飢餓で、殺されています。
そういう意味で、男性は暴力的だとも言えるし、その影響で、女性は非常に長く苦しい歴史を歩んでいると思いますし、なんなら人権という概念が発生したとて、まずは男性に付与され、時間を置いて(結構長い)女性にも付与されましたけれど、選挙権とか、その他も恐らく一緒です。そういう意味で長く辛い経緯がある。
それでも、女性であっても身体を鍛える事が出来、一般的男性と比べて腕力が勝っている場合、何某かの意見の相違の解決に、腕力≒暴力を用いる、なんなら用いたい、という欲望があるのかも知れない、と気づけた事は発見でした。そう言えば中島みゆきの「ファイト」でも、男に生まれれば良かった、という部分は、ある種の腕力を行使したい、という願望、と捉える事も出来るかも知れません。
腕力を使っての交渉、現状変更、凄く嫌ですけれど、国家間でもやってるし、ホモサピエンスは乗り越えられないハードルなのかも知れません・・・
私も腕力がつけば、腕力を行使したくなるんだろうか?
暴力に興味のある方にオススメします。

「終わりなき夜に生まれつく」を読みました

2025年9月5日 (金) 08:55
アガサ・クリスティー著     矢沢聖子訳     早川書房クリスティー文庫
アガサ・クリスティーの著作で最も素晴らしい小説、と呼ばれているとの事で、最近読んだ「春にして君を離れ」があまりの大傑作で、しかもアガサ・クリスティーを読み漁っていた中学くらいでは全く分からなかった50を超えて読んで気づかされる凄みがある小説だったのですが、それ以上、という期待を持って読んでしまいました・・・これは良くなかった。期待し過ぎました。
イギリスの地方で売りに出されている地元民が「ジプシーが丘」と呼ぶ土地が競売にかけられている事を知った男マイクがその地を見て回り・・・というのが冒頭です。
完全な1人称の語りてマイクを通して描かれる話しです。
で、まぁアガサ・クリスティー作品はそれなりに読んでいますので、なるほど、とは思いました。しかし、「春にして君を離れ」を超える作品では、今の段階では、私にとっては、無かったです。
この手法(どの手法なのかもネタバレになってしまうので・・・)が初めての人にとっては衝撃度は高いと思いますが、そうではない人にはそこまでではない感覚があります。
それと、複雑に感じられる感覚もありますけれど、非常に単純明快とも言えますし、深み、というかホモサピエンスの心の動きの機微は、そこまででは無かったです。
というか飛び抜けて「春にして君を離れ」が凄すぎるんですね・・・栗本薫の解説も素晴らしい。
ミステリというよりは、小説、でしょうね。
ただ、「春にして君を離れ」は文学。それもかなり高級な文学作品。
この作品もタイトルは悪くないとは思いますけれど。

「あの戦争」は何だったのか を読みました

2025年8月15日 (金) 11:25
辻田真佐憲著     講談社現代新書
今年も敗戦の日ですね。なんで終戦という言葉を使うのか?理解が出来ません。多分、占領軍でなくて進駐軍という言葉を使うのと同じように、現実に目を向けられない精神的弱さなのではないか?と個人的には思います。
今作も非常に感銘受けました。元々、辻田さんの書籍をこれまでも読んでいて好みの傾向ではあるものの、それなりに、多少は先の戦争関連の書籍を、少ないながらも読んできましたが、腑に落ちる読書体験でした。
ある種の分断が既に生まれて久しいですし、基本的には、もう少し話し合うとか合意を目指す、という事が図れたらいいのに、と思いつつ、面子が大切だったり、内向きの、支持者からどう見えるか?を優先してきた結果なんだろうな、とは思いますが、残念ながら、保守と革新的、左右の分断は埋まらないんだろうな、とは思います。埋まらなくて当然なんですけれど、もう少し極端にならない、より中間的な立場がなさ過ぎる、とは思います。明治や昭和初期の頃なら、右派左派の垣根を超えての話し合いが持たれていた感覚があるのですが・・・より先鋭化し、SNSとかで多数の人間に見られる状況になり、ネット空間に法治が及んでいない、無法地帯だからだと思いますけど。
ある事象に対して、その解釈はいくらでも成り立ちますし、その意図は、その事象を起こした人の日記(今ならSNS、動画配信)でさえ、信頼おけるか微妙だと思います、嘘を書くことだって十分にありうる。永井荷風の断腸亭日乗でさえ、検閲を恐れて、黒塗りしたりしていた部分があり、その事を自身で恥じてから、切実な思いを綴った、と言われているけれど、嘘が混じっていない、と断言は出来ません。
それでも、大筋で認められる、現在の資料の所、と言う中腰力、判断保留の態度が求められるし、大人な対応で教養というものだと思うのですが、未定を許さないというか、白黒はっきりさせろ、という圧力が強く、我慢できなくなって来ているんでしょうね・・・
本書では、何が戦争の発端は何となっているのか?またはどうしたら止められたのか?さらに日本に正義は無かったのか?という非常に気になる部分を紐解いていきます。
どの部分も刺激的ですし、知らなかった事を知る楽しみに満ちています。歴史にIFは無くとも、この立場で何か他の選択肢はあったのか?と考えるのはなかなか面白味があり、個人に体験を引き寄せる我が事に出来る作業だと思います。
私が最初に先の大戦について気になっていたのは、何故こんな負け方なのか?という事だったのですが、いわゆる総力戦研究所の結果を、4倍程度なら精神力で成せる、といった発言に疑問を感じたからです。ですが、本書を読むと、なかなかに東條英機の置かれた状況も、そう言わなければならない苦しさを理解できました。
このように、歴史に対して、あくまで現在の感覚での解釈に他ならない、と著者が言うように、PTSDの概念がない世界であれば、ある種の現象を精神疾患とは捉えずに、根性論で解決したでしょう。それを無意識になってしまうのを、理解しましょう、という事なのだと思います。
歴史とは、連綿と続く継続、そしてリアルな選択の結果であり、過去を変えることはできず、その解釈、失敗を認めて、だからこそ改善を求めていく他ないのではないか?と感じました。
ただ、認めるのが、出来ないんですよね・・・私もホモサピエンスですし、認められない出来事たくさんあります。個人主義だからなのかも。漱石の言う感覚ですね。
最終的には、国民的な物語の必要性を説いています。最初、非常に疑わしく、ちょっと辻田さん、と思ったのですが、ナラティブ、確かに忙しく、仕事、子育てなどの生産的活動をしている人々のことを考えたり、有権者の5割近い人が無党派層な国家ってかなり少数派だと思われます。「大衆の反逆」のオルテガの言う大衆がいる事、そう考えると、必要なのかも。みんなが読書出来たり、関心を持ち続けることは難しいですし、結局の所、先の戦争の体験者は少なくなり、必ずいなくなるわけで、しかもその間、それなりに平和が続いている。それこそ「不正義の平和と正義の戦争」の話だとしても。戦線の後方だとしても。それを享受しているわけですし。
などといろいろな事を考えさせられる読書体験でした。
新書ですしあっという間に読めます。
同時に、ドナルド・キーン著「作家の日記を読む 日本人の戦争」の事も思い出しました。
先の戦争が気になる方に、歴史が気になる方に、オススメします。

「BUTTER」を読みました

2025年7月16日 (水) 09:32
柚木麻子著     新潮社文庫
最近の本でとても評判が良かったので。そしてかなりの力作だと感じました。初めて読む作家さんです。
そして実際の事件を参考にした、というよりは、そういう事件があったという、その枠組みを用いて発想した、という方が高い気がします。そして、本当に作家が書きたかったモノが何なのか?を考えているのですが、どうにもまとまらない感覚があります。
正直、あまり興味を覚えない事件である2007年から2009年にかけての『首都圏連続不審死事件』(名称はwiki情報です、木島佳苗が被疑者で裁判は最高裁まで争われましたが、死刑が確定しています。但し、2025年7月現在、未執行)という事件の枠組みを使ったようです。読後に、調べてみると、正直、全然違う事件に見えました。そしてこの木島佳苗なる人物の、手紙を書き起こしてブログで公開していて、BUTTERというこの著作の柚木さんなのか、新潮社なのか不明ですが、獄中に知らせているのですが、木島はかなりはっきりと不快感と、その後に激高していて、ちょっとこの人物をモデルにしているとは思えないです。参考文献にこの木島本人のブログや、接見についても書かれておらず、そして本文中の登場人物たちが繰り返し、気になっているのは、とても、とても、ワイドショー的な反応について、なんです。
ここに何かあるのは分かるんですけれど、そんなに強い感情なのか?という疑問は残ります。
梶井という中高年男性に金を貢がせ、豪華な暮らしをしていた女が、3名の不審死をきっかけに逮捕拘留されて裁判が進んでいます。男性週刊誌の記者の町田里佳は、梶井にインタビューする為に・・・というのが冒頭です。
現代2020年代の働く、そして主婦だったり、形は様々なれど日本で生活する女性の為の物語です。
そこでは非常に息苦しく、差別にさらされ、女性というだけで、男性がしなくて良い事をさせられたり、欲望に対しての迂回を求められたりしているわけですが、そこに非常に特異な存在として、梶井が存在しています。
大変豪華な生活を送り、自身では働かず、男に貢がせ、美食をし、容姿を気にせず、それでいて事件が起こると、それぞれ様々な人達が強い関心を寄せます。
男性にとっても、気になる存在であり、女性にとっても謎な存在。そして、その本人へのインタビューをし、曖昧ではあるものの、社会的成功を手に入れたいと目論んでいる町田里佳。
またその親友で、社会的な仕事をきっぱりと捨て、専業主婦になり、一戸建てで夫と拙い生活を始めたばかりの町田里佳の親友である、かつての映画会社広報を担当していた伶子。
そして3名の男性殺害の被疑者である梶井の3名の女性を主軸に、物語は女性にとっての、生活とは?男性という生き物の不可思議さ、女性の連帯とは何か?恋愛とか、社会的地位についての男女差等々、トピックはいろいろあるものの、テーマとなれば、家族と男女関係と生活と食事、という事になると思います。
多分食事は、新しい要素ではないか?とは思います。
で、梶井という人物がにどういう態度や姿勢を取るのか?で登場人物たちが引き裂かれていくんですね。
私には、梶井が、非常に自己顕示欲の発露と、自意識肥大の視野狭窄な幼児的な人物似見えました。
が、貢がせるという、何というか古い習慣を持ち出してはいるものの、主婦業へのアンチテーゼみたいで、なるほど、とは思いました。恐らく、まだ現実を知らない場合、女性側から、貢がれて当然、とか、対価を払わずに豪奢な暮らしをしたい、と思う人はいるとは思います。
ですが当然男性側も現実を見ずに、家政婦としての妻を欲していたりする人も居ると思います。
そこに、貢がせつつ豪奢な生活を送る、容姿にそこまでの理由を見出せない存在、に対して、不信感や羨望など複雑な感情が生まれているんだと思います。
梶井が言う「女神」理論は、まぁほとんどの人が納得出来ないと思いますし、正直、老齢男性への性的なサービスの一端、という認識も取れなくはないのですが、梶井側から見ればそれが「女神」論であるだけですし、そもそもかなり奇異な関係です。
なので、なんでここまでこの小説が読まれているのかと言えば、そこにサスペンス要素と、食文化が加わってくるからです。
で、食文化の方は、割合、B級グルメ的な、そして女性版の「孤独のグルメ」的な所からスタートし、最終的にはちょっとびっくりするような地点まで到達するのですが、ネタバレの無い範囲であまり言える事は無いです。
シスターフッドを定義を調べてみると
sisterhood
1姉妹。または姉妹のような間柄
2共通の目的を持った女性同士の連帯
という事のようです。なるほど。そういう意味では、確かにシスターフッドモノとも言えます。が、共通の目的、という部分が、やや違和感を覚えます。そして、この物語の結末が、どう解釈するのが良いのか?凄く悩むわけです。
ただ、非常に力作である事は間違いない。そして食文化的にも、面白いです。
食事に対しての細やかな描写は、流石です。繊細で勢いもあり、試してみたくなる事ありますね。
実際の事件は、正直調べても、あまり興味がわかない事件でした。興味が辛うじて沸く部分としては、何故関係を断ち切り、連絡を辞め、その代り金銭を諦める事が出来なかったのか?正直検察の証拠、裁判調書を読んだわけでも判決文全文を読んだわけでもないのですが、割合状況証拠が大きく、そこまでの確実性は感じなかったですが、木島が、実際に、関係を断ち切るのではなく、金銭授受を理由に、殺害(自殺模倣)を思いついても実行するか?の部分が気にはなります。なにしろ次のカモを見つけて行ければ良いはず。でも、その選択は取らずに殺害を決意するその動機は気になります。ですが、凄い小物感しか感じない事件だと思います。容姿は重要でしょうけれど、いろいろな好みを持つタイプがいるわけで、しかも当時の木島の年齢は34歳で、相手は、53歳、80歳、41歳とばらつきはあるものの、自分よりは年上です。そう、若いに価値がある、をしているわけです、好みの問題やそれこそ金銭的な裕福さが無ければ成立しない、非常にレアケースだと思います。
で、ココからはネタバレありの感想になります。
アテンション・プリーズ!出来れば未読の方はご遠慮くださいませ。
さて、登場人物の中で最も、私からするとサイコパスに、異常に見えたのは伶子なんです。育った環境の特異性は認めますし、容姿端麗で美人の処遇でキツい部分もあったと思います。それは理解するけれど、町田里佳の仕事やその関係に執着して行動を起こすのは、もはや恐怖でしかないと思います。
で、梶井にまで接見して、周囲を騙して推理を進め、証拠を手に入れる為に単身乗り込み梶井を否定したい伶子の目的とはいったい何だったのでしょうか?
それは女性同士の連帯というモノではなく、伶子の町田里佳への恋に見えるんですね。もしくは執着。本文中でも町田里佳が男であれば良いのにまで書かれています。
そんな伶子が、単身乗り込んだ男性宅から救出された事で、喋れないほどの、精神的なショック、受けるモノなのでしょうか?
梶井を否定したい、梶井に近づく町田里佳を止めてこちらに振り向かせたい、という願望。それは愛ではなく恋的な執着に見えるんです。そして何故ここまで計画性があり、度胸もあり、執着もある伶子が、なんでこんなに精神的なダメージを負っているのか?がどうしてもよく分からなかった。
さらに、梶井が何かを仕組んで、町田里佳を社会的に抹殺しようとしたのではなく、ただ単に、突発的な行動の結果でしかなく、裁判傍聴をして事件に関心があれば伝わる内容ですし、ただ単に町田里佳を超える執着すべき愛玩が他に見つかっただけなのに、町田里佳もかなり落ち込むのですが、だとすると、記者としての覚悟というか、仕事のレベルが低い気がします。
何となく、町田里佳と伶子の連帯をしたいのだが、何の為の連帯なのか?がはっきり描かれていないから、のような気がします。伶子は夫の基に戻るし、町田里佳は中途半端にまだ梶井周囲の人へのインタビューを考えている・・・なにか釈然としないんです・・・
目的が一緒ならもう少し、ラストの団欒も違った味わいがあったと思います。というかサロン・ド・ミユコへの潜入辺りから、恐らく、この小説の終着点を探して、なんとか血ではない連帯を、新しい家族像を目指していたと思いますが、ゴールとして美しいのだけれど、あまりに早急な気がしました。
3000万円の買い物で、誰かが集まれる部屋数の多い家の購入。美しいけれど、かなり飛躍を感じます。もっと丁寧な関係性の変化が欲しかった。もっと伶子夫婦と町田里佳の関係性、出来た気がします。なんなら子供を含めた、里子を育てる話しを追加しても良かった。情報をくれる篠井さんに父性を感じているところから、恋愛関係にはなって欲しくなかったけれど、篠井さんが娘を家に連れてくるのに、娘が七面鳥を食べたかったから、だとやはりご都合展開な、気はします。1度どこかで出てきていれば、あるいは・・・そしてこの仕事関係や友人関係の連帯の、共有出来る目標みたいな何かがあれば、もっと良かった。
そして、娘と父親の関係性についても、そこまで感じ入るモノなのか?という疑問もありました。すべての男性がマザコンな訳が無いのと同じように、全ての女性が父との絆を感じなくても良いけれど、確かに町田里佳の場合はかなり特殊だけれど、病気というモノはなりたくてなる人は恐らくかなり少ない上に、日ごろの不摂生の影響は大きい。基本的にすべての死は救済でもあると思う。
血ではない新しい家族というか連帯、この発想は素晴らしいし、好きなんですけれど、もっと同じ目的性みたいなものが欲しかった。これだと、NPOのセーフハウスみたいな事で、これは必要だけれど、ちょっと違う、もっと、この10人だからこその、という目的というか目指すべき何かの共有が欲しかった。
ただ、この物語を読んでいる最中は、続きが気になって集中していましたけれど、振り返って考えると、何だったのだろう、という事からこの感想にまとめていますけれど、大変な力作である事は間違いないし、今まで読んだ事が無い作品でした。
謎がどうも解決しないのは、多分私が男だからなんだろうな、とは思うのですが。
女性の傾向として、相手にこう考えて欲しい、というのがある気がします。でも他者の考えを強要する事は出来ないし、望むだけ失望する。それでも考えてしまうのは、共感があるからなのだろうか?
永遠に分からないけれど、それでいい気がします。恐らく誰とも完全な相互理解など出来ないし、それは一瞬の希望であり、過ちなのでしょうから。
町田里佳と伶子の連帯できる目的があればもっと良かった。
エシレバターって美味しいですよね
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