井の頭歯科

「テルマ&ルイーズ」を観ました

2023年4月25日 (火) 09:45

 

 

リドリー・スコット監督   MGM   U-NEXT

凄く有名で結末も知ってしまい、だからこそ観た事が無かったです。それに星里もちる先生の傑作漫画「りびんぐゲーム」の中で、凄く印象的な使われ方をしていたのもあり、そうか、そういう風にも印象を残せる映画なんだな、と思って避けてしまっていました。それと、リドリー・スコット監督作品を追いかけてみようかな、と思ったので。好きな作品もあるけれど、好きになれない作品もある現代の巨匠、ヒットメイカーでもありますし、「最後の決闘裁判」を観たいというのもあります、「ハウス・オブ・グッチ」には全く興味は湧かないんですけれど・・・

朝のダイナーで忙しくウェイトレスとして働くルイーズ(スーザン・サランドン)は親友で専業主婦のテルマ(ジーナ・デイヴィス)に電話をかけて一緒に過ごす休暇に今日出かける準備の状況を聞くのですが・・・というのが冒頭です。

最高に素晴らしく、2023年の今観ても色あせる事のない(とは言えだからこそヤバいとも言えるのですが)傑作。ちょっとリドリー・スコットが撮ったとは思えない題材なんですけれど、恐らく、脚本が素晴らしい作品。当時、どのような評価を受けたのか気になりました。

ロードムービーでバディ映画の傑作でしょうし、そこに当時の常識、が映し出されていて、今観ても結構ヘヴィーな状況ですし、それが2023年に観ても、ある種今も変わってない、という部分においては恐ろしく感じさせるとも言えるその時の常識、が映し出された作品。

常識はテクノロジーによっても、感覚によっても、様々な要素で変わるものですけれど、その様が如実に、強く印象付けられている作品。そう思って製作されていないからこそ、余計に際立つとも言えます。

これは自立とか、責任とか、個人を扱った作品でもありますし、法律とも道徳とも関連のある尊厳の問題を、事件とも言う事が出来ない、恐らくもっと年代をさかのぼれば、事件ですらなかった可能性がある「きっかけ」から、同様の過去の出来事の経験者が、それこそ掃いて捨てられてきた加害者側によく言われる『飲酒』を基に被害者側にパワーがあった場合の顛末を見せてくれます。

この「きっかけ」をエンジンにストーリィは展開していくのですが、脚本は本当に見事。個人の尊厳を扱った映画です。

しかしリドリー・スコット監督が撮る気になったと言う意味でも、そして、ラストの舞台と言う意味でも、これは西部劇なのでは?とも思ってしまいました・・・私は結構西部劇が好きじゃないのに、この映画は大好きです。

脚本のカーリー・クーリの事は忘れないようにしよう。

 

 

バディ映画が好きな方に、オススメ致します、名作って言われてるけれど、確かに名作だし、リドリー・スコット監督作品の中で1番好きな作品になりました。

 

 

 

 

アテンション・プリーズ!

 

 

ココからネタバレありの感想です、未見の方はご注意下さいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレあり、としては、現実には酒が入った状況だから、酒の入った状況に相手も乗り気だった、なんならその場に同席する事に異を唱えなかった、もっと言うなら抵抗や拒否がある事を楽しむ人間がいたり、その手のファンタジー込みで、ジャンルですらある世界です。

 

 

 

 

その時、被害者側がパワーを持っていたら、単純に銃兵器を持っていたら、という真っ当に対等性の話しじゃなく、こっちにもテクノロジーがあれば可能な絶対的な上下関係で生命の維持を遮断出来る可能性を 相手だけ が持っていたら?という事だと思います。

 

 

 

 

これは2021年公開エメラルド・フェネル監督作品「プロミシング・ヤング・ウーマン」的な映画との分岐点でもあると思います。 なんなら、男女とは別に「▲」という男性よりもさらに身体が巨大で筋肉量でも知能でも敵わない絶対的な身体的な差がある性別の性的嗜好が人間の男性で、無法的に男性を性的に搾取する存在がいたら、と仮定する事でもいいです。ジョン・ロールズの無知のヴェールみたいな話とも言えます。

 

 

 

 

ルイーズは恐らく、過去に同様の経験があった、もしくはその場に同席しつつ、法治の限界、常識の限界を、テキサスで経験したことがある、という事だと思います。つまり、プロミシング・ヤング・ウーマンのように、時間の経過と後悔や慚愧の念を抱えた後に、過去を想起させて、あなたが同じ立場に立たされたら、という趣旨の復讐をするのではなく、その場で、その相手に、絶対的な暴力を行使する、という事態を経験する話しになっています。

 

 

 

 

これは、とても示唆深いです。だって、当時でしょうが、いつの時代でも、ハンドガンが発明されて以降であれば、武器を持つ事で関係的に優位に立てる事実を示しています。 銃社会の歴史がほぼほぼ自国の歴史と言って良いアメリカ社会であれば、当然考えられそうですけれど、女性たちが銃を持つ事で個人の尊厳を守る、という話しにはなてないと思います。もしかすると、存在したのかも知れません。

 

 

 

 

ただ、あまりに圧倒的ですし、致命傷になりかねないわけで、なかなか加減が難しいです。それに、きっとそこまでの決定権を持つ事に、躊躇もあったし、ヘヴィーでもあったと思います。 でも、ルイーズは、過去の経験上、このままでは法による保護は望めないし、どうやら常習的に繰り返しているであろう存在を、私刑として、許す事が出来なかったのでしょう、理性を脇に置いたとも言える、衝動に任せた、とも言える。

 

 

 

 

きっとほとんどの逆の関係で言い訳として述べられる事の多い言葉と同じように。

 

 

 

 

死よりも凌辱の法治内での罪の軽重を話しているのではなく、復讐権を国家権力に取り上げられている話しだと思います。

 

 

 

 

ルイーズの行動を衝動的、とか酒の席とか、いろいろ批判も出来るだろうけれど、共感も出来る。そして、ここに共感出来ると、この後の警察官、そしてタンクローリーの男への行動にも共感してしまうと思います。

 

 

 

 

テルマが言うように、これは個人の生き方、人生をハンドリングする旅なんですよね。その代り、所謂「世間」とか常識とかからは離れますし、常識的や道徳的倫理的な加護からの離脱になるでしょう。

 

 

 

 

それでも、これまで人間ではありながら、「普通」の生活を送っていたにも拘らず、実際の所自分の意思を、刷り込みによる常識を壊してまで操縦してこようとしていなかった、という事実を描いています。

 

 

 

 

多分、テルマも気づいてはいたけれど、それを、はしたない、とか社会的な常識、刷り込みによって、押さえつけていた。 ただ、夫は父親ではないし、当然、成人した人間として、自分の行動には責任が伴うし、その代り常識に従わなくとも法を犯さないで生活する事も出来る。そして、もちろん夫婦関係を継続する為には犠牲が伴うし、なんならその相手を自分で決めた。

 

 

 

 

実際の所、テルマは自分で決めた結果、家庭に縛る欲求を持つ男性と結婚したし、ルイーズからしてみたら、明らかに最初から不信感があったであろう(シルバーバレットでの、後に実力を行使する事になる相手に対しても、同様)事は示唆されているけれど、でもテルマの「ダメになる権利」をその決定を認めている。力尽くで、あるいは言葉巧みに誘導する事が出来たとしても、していない。でも、忠告はする。

 

 

 

 

ルイーズはテルマを尊重している。

 

 

 

 

テルマはいわゆる持てる人であるし、基本的に良い人間だろうけれど、疑い、批評性が無く、疑問を持たない。なにしろ順応しているし、客観性もそんなにあるように見えない。この世界である意味成長しないで順応してきた。だから、ある意味公平ではない事に気付きもしないし、それは、恐らく、イヤな話しだけれど、女性であって容姿が良いからであろう事が示唆されている。

 

 

 

 

その中でもテルマはルイーズを信頼してきた。 関係性の上で相手がダメになる事であっても尊重して、齟齬にならない事が、友情だとするなら、2人の関係は友情だと思う。 そんな2人が旅立つ瞬間の高揚感、日常から離れるシークエンスの中で、2人の背景を語るのも上手いし、最初にルイーズがテルマに保護者と婚姻関係の言葉を使っているのも上手い。

 

 

 

 

ルイーズはテルマとは違って、いや、もしかすると同じだったかもしれないけれど、テキサスでの過去があり、その経験から学んだのかも知れない。 テルマはルイーズとは違って、初めての経験から、解放、そして個人を自らの手で握る事への実感を初めて味わったからこそ、より突き抜けた存在になったのかも知れない。

 

 

 

 

タンクローリーの男に向かって言う、あなたの姉妹、妻だったら、というセリフがある事の重み、ただ、謝る、という事さえ出来ない『男』に対して、確かにやり過ぎだし、代償を支払わなければならないし、それが死んだからとて無かった事にはならない。

 

 

 

 

ハーヴェイ・カイテル扮する刑事が言う「痛めつけられっぱなしの女なんだぞ」と。確かにその通りだけれど、そのすべてを、タンクローリーの男や、場末のナンパしか出来ない男に被せるわけにはいかない。

 

 

 

 

でも、この映画、虚構の中でそれを行う事によって、もしかすると観客の中では何かが変わるかも知れない。

 

 

 

 

最初は、リドリー・スコット監督がなんで撮ったのか分からなかったけれど、タンクローリーの男との対決、そしてラストを観て、ああ、西部劇だったんだ、決闘の話しなんだと思って勝手に頷けた。

 

 

 

 

凄い脚本だった。ラストもいろいろあったみたいだけど、個人的には良かった。

 

 

 

 

出てくる役者は皆素晴らしく、特にルイーズを演じたスーザン・サランドンは野球を扱った映画の中で私の中のベスト1である「さよならゲーム」のヒロインだし、今作でも本当に魅力的だった。ある種の常識人を演じられていて、説得力もあり、イイ男と付き合ってるオトナの女性にちゃんと見える。

 

 

 

 

ジーナ・デイヴィスは最も変化する役目を負った難しい役どころですが、完璧。朝の爆発頭でやってきた完全にキマってる目の演技とか本当にヤバい人にしか見えないし、凄い。あの焦点のあってない目、アダム・マッケイ監督作品「マネー・ショート」の中に出てくるトレーダーを演じた際に、義眼である事を演じたクリスチャン・ベールの目の演技を思い出しました。それに、この人のハンドリングに、カタストロフィがあるわけで、この人の生き様みたいなものが輝かないと映画も輝かないはずなんだけれど、見事に輝いてる。本当に素晴らしい演技だった。

 

 

 

 

ハーヴェイ・カイテルは納得の演技で、観客の視点を担う役目で普通だったら語り手になりうる存在ですし、何と言っても捜査しているようで、本心から助けたいと願っている。それだけ様々な場面を観てきたのでしょうし、日常に違和感を覚えてもいるでしょう。でも今作ではその上で傍観者になるしかない立場。その葛藤を上手く表現していて、素晴らしい。イイ奴、グッドガイですよね。

 

 

 

 

JDを演じる若き日のブラッド・ピット!カッコイイ!そしておバカ。このおが付くか、付かないかが重要。つまり愛嬌がある。美味しい役どころですが、流石若い時もイイ。コーエン兄弟の監督作品「バーン・アフター・リーディング」のチャド役の若い頃みたい。

 

 

 

 

さらにテルマの夫ダリルをクリストファー・マクドナルドが演じているのですが、典型的なトロフィーワイフ思想で、これが普通だったら嫌だなぁ、という所をコミカルに演じていて、いです。空回りっぷりといばりんぼっぷりがいい。 いつも思う、昭和が懐かしい、という人に、いやいや、昭和のキツイところもいっぱいありましたよ、と言いたくなる感じと同じように、この映画からなんにも変わってない部分を感じると、なかなかにヘヴィー。

 

 

 

 

リドリー・スコット監督作品、いろいろ観てみようと思ってます。

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