井の頭歯科

「わかりあえないことから ‐コミュニケーション能力とは何か」を読みました

2012年11月20日 (火) 08:35

平田 オリザ著             講談社現代新書

平田 オリザさん、名前を聞いたことがある、くらいの人で演劇関係の人であるという知識しかなかったんですが、この副題「コミュニケーション能力とは何か?」という問いかけにビビッと来たのと、想田監督観察映画の題材がこの平田さんである、ということで興味を持って手にとりました。

私個人はコミュニケーション能力が低いし、気付きも少ないけれど、せめて感覚を閉じる(思い込みや刷り込みが 絶対 と信じるのを)事は無いようにしよう、と考えています。いろいろな人がいますし様々な意見がありますし対立も多いでしょうし。少しでも分かり易く説明する能力があれば、パラフレーズ(比喩力の重要性を感じます!本当に重要!!)する能力が1つ2つではなく、10や20あれば、あるいは相手に合わせて理解し易い比喩を探し出して提示出来れば、もっとコミュニケーション能力は高くなる、いや高められる、すると齟齬や行き違い、あるいは単純に楽になると思うし交渉することが、合意形成が行い易くなるのでは?と考え、そのためには思ったことや感じたことを言葉にしておく訓練をしておくのは善きことなのではないか?と思いこんなブログを続けているのです。交渉や説明、合意を取り付ける事は仕事にも、そしてもちろん仕事以外の様々なことに役立つのではないか?ということです。いろいろな方からこの感想に対しても意見をしてくれますし、何より文章にすることで自分が何を考えていたのかが分かる事が楽しいんですけれどね。

そんな風に考えていたのですが、最初からいきなり突き放されます。なんと『わかりあえないこと』が普通なのではないか?というのです。

そういう意見もアリとは思いますが、なかなか衝撃的です。現代の社会で言われている「コミュニケーション能力」とは何を指すのか?簡単に言えば「コミュニケーション能力」を定義するとすればそれは何になるのか?その言葉の意味が指すところと、企業が求めている「コミュニケーション能力」とは違ったものではないのか?というところから話しは立ち上がります。

著者である平田さんは大学で教える立場であり、劇作家であり、演出家なのですが、企業に求められる人材を育てる、大学での(もちろんそれ以外でも)教育者という立場に立ってこの現状を見ると、いかにダブルバインドを強いられた状態なのか?を分かり易く説明していただけます。

そして教育を考えると『国語』という教科の是非まで考えが進みます。表現者であり教育者である平田さんから見ると『国語』を「表現」と「ことば」に分けることが必要なのではないか?というのです。この部分も衝撃的でした。が、確かに良く考えると、頷けること多いですし「表現」には音楽も絵画もダンスも同じ「表現」です。この部分は面白い考え方だと思いましたし、その「表現」をする上での最も流通性の高いスキルである「ことば」を設けてその「ことば」を操るスキルを磨くのは理にかなっていると感じました(後述しますが、個人的には足りないモノがあると考えますけれど)。

表現者としての平田さんが教育者として振舞うことで最も特徴あると感じたのはやはり演じるということですけれど、知らなかったことばかりでした。自然と感じる、演技を上手いと感じる理由を言葉に出来たり、言葉の順序を変えることで強調を生み出す話法、アンドロイドに演技させるというロボット演劇を通しての逆説的な「人間らしさ」の発見、「対話」と「会話」の違いから見える「わかりあう文化」と「察しあう文化」の成り立ち、どれも面白く、そして気付かされるトピックでした。

そして、弱者のコンテクストを理解する、というのがリーダーの条件に挙げる考えも素晴らしいと感じました。ただ、みんなが理解を深め、よりよい人間になろうとする努力をするという前提が欲しいですけれど。シンパシーからエンパシーへ、同一性から共有性へ、という考え方も知れてよかったです。そしてこの共有性からさらに社会性に話しが及んだ時、いかに我々(という大仰な人称を使わざるを得ない)が細分化されているのか、孤独であるのか、わかりあえない存在であるのかを理解出来ます。結論に至るまでの流れが、分からせるということが非常に上手い構成でした。

もちろん、ちょっとした異論もあります。

私個人の考え方ですが、このダブルバインドは確かにダブルバインドに間違いないんですが、しかし、このダブルバインドを、ダブルバインドとして「良い塩梅に」、それぞれの案件について個人が判断しろ、と言われていると思っています。もっと言えば相反する二重のものではあるが、個別に判断して上に上げなければいけないものを上げ、いちいち判断を仰がなくて良いものは速やかに自らの判断を下に(無論責任が発生しますけれど)行動に移せ、ということなのではないかと。そういう『良い塩梅』の場数を踏めるのが『大人』なのではないか?という事です。おそらくムラ社会ではこういう事が求められ、自然と振舞っていたのかもしれません。

また、『国語』を解体したとして、「表現」と「ことば」以外の重要な案件を入れていただきたいと思いました。表現の中でも外でも構いませんが、コミュニケーションとして考えると、表現の発信者がいれば必ず表現を受ける側が存在しますので(もっと言えばいなくてもアリなんですけれど)、表現する能力、そしてその表現を読み取るチカラも必要だと思います、そしてこれこそ個人的に重要だと考えますし、現代で最も必要なのではないか?と思われるリテラシー(理解し解釈する、もっと言えば相手の立ち位地や背後にある思想や利益誘導かもしれない思惑まで含む)だと感じます。「表現(するためのすべて)」「リテラシー(表現を受け取る、読み取るチカラのすべて)」「ことば(表現の中でも最も汎用性の高い言語)」が必要だと思いました。表現の方法だけでは不十分だと思うのです。

など、多少異論を唱えてみたい部分もありましたが、深く考え抜かれた専門家が分かり易い言葉や例えで紡ぎ出した文章、面白かったです。時間が無いので劇場では見られないかもしれませんが、想田監督作品「演劇1、2」見ようと思います。

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