井の頭歯科

「マジメな話 世紀末・対談」を読みました

2013年2月8日 (金) 08:53

岡田 斗司夫著         アスペクト

最近気になった人物である岡田さんの著作を図書館で何冊か借りたのですが、その中で1番面白かったのがこの本です。様々な言論界の著名人との対談を集めたものなんですが、非常に面白かったです。世紀末、とありますので時期としておよそ1997年くらいの対談ものであるのですが、私にとっては今読んでも充分面白い本でした。世紀末から全然変わってないと思いますし、世紀末ってただ単に西暦での世紀末というだけで、マヤ歴だったり、皇紀だったりその使用しているコヨミの節目というだけなはずですしね。世紀末は終わってないというか、何時の時代も世紀末であり、世紀末でないのだと思います。

対談相手が非常に惹かれる人選でして、「ものぐさ精神分析」の岸田 秀、「完全自殺マニュアル」の鶴見 済、「日本国憲法の問題点」の小室 直樹、「終わりなき日常を生きろ」の宮台 真司など、かなり気になる対談相手ばかりでしたし、知らなかった今野 敏、そして岡田 和美という2人の対談もかなり面白かったです。

どんなことにしろ、どんな対談相手にしろ、岡田さんの発言はかなり突っ込んだ、しかも的を得たかなり根源的な問いが面白いと思います。ちゃんと1度咀嚼した後での、もっと引いた視点からの問題を包括した問い立てが個人的には肝であると思います。

個人的に面白いと感じたのが、小林 よしのりとの対談で語られる、思想やファンの利益代表という考え方、岸田 秀との対談で語られる抑圧が無くなると精神分析すらいらなくなる話し、「疲れる文明」、豊な社会には大人がいらない話し、大槻 ケンヂとの対談で語られる、オタク「になれないコンプレックス(オタクというのはある意味の専門家であるということだと思います)の話し、鶴見 済との対談で語られる、全否定=全肯定という考え方、小室 直樹との対談で語られる、アナーキーな世界への移行と避けるための手段としての教育の可能性、伝統主義という封建社会だからこそ規範を補う宗教的な背景が存在しないことの恐ろしさ、ホッブスの言う「万人の万人に対する戦い」の普遍的な意味、日本的ノブレス・オブリージュの成り立ち、宮台 真司との対談で語られる世界は有限だと気が付く事から生まれる共生という概念の重要性、コスモロジーという『ものさし』を欲するという考え、日本という国家が傾いたり1流でなくなることへの問題意識が無いことの問題の無さ、です。どの問題定義や事実も、岡田さんが対談相手のキャラクターやそれまでに成して来た事を踏まえて、より中心的な問題を一言で切り込む単刀直入感と省いてしまえることの技術、物事の芯を言葉で端的に表すことの上手さが光ったと思います。

最後の対談相手に家族であり妻である岡田 和美を選び、それまでと逆の構造を作るところも、大胆で面白いと感じました。もちろんそこでは言論界へのある程度の決別を、そしてこれまでの自己を正当化しつつ、これからはそれを捨てるという自己の一貫性を失くすことを表明するというのは驚くとともに感情的だと感じましたが、これこそ論理だけでない面白さではあると思いました。

論理的に考えを深められる部分については突き詰めつつ、しかし最終的には自分の欲求や感情、あるいは気分で決断することの覚悟を引き受ける部分にある程度理解は出来ました。もちろん一貫性を捨てることでの信用性は軽くなりますけれどね。

なにしろ結構前である1998年出版です、およそ15年前ですからこそ、今その後を知った上での判断を下せるわけで、非常に面白いと思います。それぞれ対談相手のその後の立ち位置を考えるのもまた一興であると思います。

考える、あるいは知らなかったことを知るというトリビアルな楽しみを好む方に、それも現代からあの時代を振り返ることでのそれぞれの立ち位置を知っている上での『何を言っていたのか?』を知るのは、その人物の重みを知ることでもある、と考えられる方にオススメ致します。

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