井の頭歯科

「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観ました

2021年7月24日 (土) 09:46

エメラルド・フェネル監督     パルコ   フォーカス・フィーチャーズ

衝撃的な映画を観てしまった・・・・
男性は是非観ておいた方が良いです。出来れば劇場で。すべての人にオススメします、終わり。でいいくらいの傑作。
アメリカ公開は2020年で、しかも第93回アカデミー賞にノミネートされています。作品賞、監督賞エメラルド・フェネル、主演女優賞キャリー・マリガン、脚本賞エメラルド・フェネル、編集賞、の5つにノミネートされていて、受賞は脚本賞のみです。やはり私の好みとは改めて全然違うし(当たり前だ)、アカデミー賞はノミネートされつつも逃した作品や、ノミネートすらされなかった作品の方がずっと映画史的には重要な気がします、という私のそういう主観をまた補強する結果です。そういう意味で、この作品も同じ扱いを受けると思います。私は今年公開の映画は全然観られていないのですが(なんでレイトショーがダメなのか?理解に苦しむし科学的根拠とかはどうでも良くて雰囲気や空気で決まる社会に暮らしているので、凄く滅入ります、知ってても、滅入る)、もう今年観た映画のベストと言い切って良い作品です。
衝撃度としてスゴイと感じる、という事は私がいかに男性として下駄を履かせているか?を証明している、という事にも繋がるし、その通りですし、振り返って、恐らく忘れているであろう事も含めて(忘れているという段階で罪)、具体的に何、と言えなくとも非常にヘヴィーな作品です。肌感覚として、理解出来ます。
反省とは過去を振り返って、省みて考える事で、それは償いとは違います。償いとは、相手に与えた傷に対して、相手の身になって懺悔の気持ちが起こらないと、償いとは言えず、また、誰かに言われて起こす行動ではない、と考えます。自らの行動に内発的な、自らの考えが基になって起こす行動によって初めて相手に伝わる事であり、その行動によってのみ相手から許される可能性が出てくる、と思うのです。しかし、人は過ちを犯す生き物であり、神のように潔癖に生きられる人間はいません。そもそも、神と言う概念すら、人間が考えた不条理な世界を生きるための方便ではないか?と考えていますし、無神論ってそういう事だと思います。神が許しても相手が許すか?は不明ですから。
あなたは過去の過ちに対して、償いの行動を起こしてきているのか?という鋭い刃を観客に突き付けてくる作品です。もちろん私は全然償えていない様々な罪があると思います。その事に気付かされる作品です。特に男性の性的な行動に対して。
深夜のクラブで男性3人が、男性だけで仕事への考えに対して同意を得て盛り上がる、いわゆるホモソーシャルな話題で意気投合していますが、ソファに泥酔している女性客(キャリー・マリガン)を見つけ・・・と言うのが冒頭です。
この冒頭、男性の酔う事によって理性が後退している様を踊りで表現する演出が非常にクールで、これから起こる映画の内容を示唆していて、ストレートな表現ですけれど、それでもこの映画の衝撃度から考えると、確かにまだソフトな演出だと思います。
これは悪に対して鉄槌を喰らわせて気分爽快、という娯楽作品ではなく、もちろん娯楽作品として見る事も出来るとは思いますが、社会と折り合おうとするある人間の、それも既に不在の他者に対する行動の結果を描いた作品です。そういう意味では、ロマンスですらあります。
そして当然ですけれど、そんな男性ばかりじゃない、とは言えない世界共通の話し、に私には見えました。
ある1名の男性を除いて、この作品に出てくる男性の非常に狡くて、自らの保身だけの言動で、償おうという気さえない、というのが、また、そんな人ばかりじゃない、と自分を含めて言えない事に、非常に刺さる作品です。もちろん主人公にも問題があるのですが。とにかく男性が非常に幼い・・・もちろん私を筆頭に、そしてそれが恥ずかしい。
ただ、私は非常にネガティブな思考の持ち主なので、ただの難癖かも知れませんけれど、前途有望じゃないといけないのか?とは思います。前途有望だろうが無かろうが、男性だろうが女性だろうが、過ちを犯した場合は償わなければならないし、幼ければ許されるのか?と言えばそんな事も無いし、リビドーに従ったという事は理性を捨てた(は言い過ぎかもしれませんけれど、脇には置いた)結果の責任は負わなければいけないと思います。多分、善悪が判るの年齢に達していれば。当然主人公キャリー・マリガン演じるキャシーも、罪は償わなければならない。
キャリー・マリガンの演技は相変わらず素晴らしいですし、どちらかと言えばキャリアの中では穏やかな人間を演じている印象がありますが、今作の最も良かったのは、声の演技。声のトーンで覚悟が分かるような気がします。
ネタバレではないけれど、みんな大好きクリストファー・ミンツ=プラッセ、つまりマクラビン!が出演していますけれど、大人になったなぁ。とても卑屈な、そして凄く私にも近い、屑な事に拘って人生を無駄にしている、ように、見える人、を演じていて、説得力がありました。依存傾向のある人は気をつけないと。それでも、この映画の中の男性では、まだマシな方です、多分。
スポーツの祭典を見るよりもこの映画を観た方が世界は少しでも良くなるんじゃないかな?と言うくらい素晴らしい傑作なので、映画館に行ける人にオススメ致します。
そしてネタバレ感想では説明しますけれど、スーパーヒーロー映画、スーパーマンとかバットマンとかその手のヴィジランテ、そういう映画が好きな人にオススメしたい映画です。この映画と対になる映画はジェームズ・ガン監督の「スーパー」かもしれません。
アテンション・プリーズ!
ネタバレありの感想です、あくまで個人的な感想ですけれど、文章にしないと考えがまとまらないので。
キャシーは、恐らく社会と折り合いを付ける為に、自らの危険を引き受ける事で成り立っていると思います。何しろもし相手が本当の変質者だったら、複数であったら、武装していたら、という非常に危険を犯した上での犯罪、そう犯罪行為なのです。何しろ脅しているのですし。立派な脅迫です。しかし、相手に後ろ暗い所があるから黙らせる事が出来る場合に、それなりの行為をしているのだと思います。
例えばマクラビンが相手の場合は、ほぼ何もしていません。程度を計ってはいるのが理解出来ます。
しかし、恐らく、映画冒頭の男には、何かを、強烈な、何かをしたでしょうし、それは相手が償いの気持ちには至っていなかったでしょうし、キャシーによる私の刑罰です。
この私の刑罰、と言う所が、個人的には、いわゆるヒーロー映画、スーパーマンとかバットマンとかと同じなんじゃないかな?と思うのです。私の刑罰を与えている、と言う意味で同じ。
この考えの先にはジェームズ・ガン監督作品「スーパー」で示されているので、まぁそれは置いておきますが、正義のヒーロー映画が好きな人には観て欲しい作品です。要約すると、それは警察の仕事であるし、公の場でまだ社会が対応出来ていない、でも古くからある犯罪だからといって、私の刑罰を与えて良い事にはなっていない、あくまで己の感情の発露の為の新たな犯罪、だと思います。正義のヒーローの行動は、善き事かもしれないけれど、その悪に鉄槌を喰らわす、という事は新たな犯罪行為である、という指摘です。なんで正義のヒーローには、それが特権的に許されているのか?そして男性はヒーローになりたがる傾向があり、それってつまり、困難に直面した場合に『男児は世界を変えたがり、女児は自分を変えたがる』という事です、確か社会学者の宮台真司先生の言葉だったと思います。
キャシーはそれでも社会との接点を持とうと足掻いていたと思いますし、映画内でも、唯一、誠実そうな相手には、誠実な対応をしようと努力しています。ま、普通あのコーヒーは飲めませんけれど。
しかし、それは過去の事件と無縁ではないし、いずれ対面しなければならなかったと思います、医大時代の友人なんですから、そして事件の当事者の友人ですらあるわけですから。
今作の最も難しい、評価の分かれるところは、不在の中心であり、主人公キャシーの友情というよりは愛情(成就していたか?すら不明)の対象であるニーナについては、表現しない事で表現する手法を取っているからです。ニーナの事件についての動画すら、1秒も描かれていません、声が聞こえるのみです。
好意的に取るのであれば、ニーナに心酔しているキャシーの、ニーナへの鎮魂歌とも取れる行為だと思いますし、それも、ニーナの事件の際にはその場に居なかった、恐らく事件によって直接の関係は無かったが抗議の意味での退学であったと思いますし、ニーナが自死を選択した後に、心酔が好意に、好意が愛情に変わったのではないか?と個人的には解釈しました。
否定的に取るのであれば、もしかすると、事件にも関わっていないし、ニーナは本当にアル・モンローに恋していた可能性すら示唆しています。キャシー自らがニーナから何度もアルの名前を聞いたと言っています。
なので私は好意が愛情に、時間をかけて変異していき、だからこそ、酒場の行為を止められない(あのノートの筆圧!の強さ!!)のだと思うのです。独善的な私の刑罰行為に走らざるを得ず、その事でニーナへの想いと贖罪(その場に居なかったという自責の念)に危険を犯す事で繋がっているのかな?と感じました。
しかし、登場する男性陣の幼さ、保身といったら、悲しくなります・・・そして、これは反論ではなく、そのように育てられているようにも感じるのです・・・何しろ男らしさ、という事は社会的体面を保つ事である、と暗に教育されていると感じるのです、謝罪は敗北、という単純な二項論で、特に勝敗のつく運動部では、そういう部分が非常に強く、まただからこそ結束力が芽生えるとで教えられると同時に、その同調圧力に同意しない存在は排除されるのですから。もちろんそのように教育されたからと言って罪は無くならないし、償わなくてよい事にもならないです。
否定的な部分も上げておくと、クライマックスにおけるキャシーがやりたかった事が、判然としない事、そして結婚式でのメッセージ、です。ここは狡猾、と感じました。何処まで何が許されるのか?(もちろん住居侵入罪ではあります、この時点でも)という行為の程度、それが示されないのはどうかと思いますし、麻酔科医で母校で講演をする程度までの医師が我を忘れて窒息死させるか?というのも狡いと思います。都合よく退場するのはドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品「灼熱の魂」(の感想は こちら )と全く同じ欠点を持った作品です。それに、じゃ誰が小児科医であるライアンにアル・モンローの結婚式当日の警察が踏み込む直前にメッセージを送れるのか?という問題もあります。仮にあの唯一の罪の意識がある男性である当時の弁護士だったとして、何でそんな事をするのか?そしてわざわざキャシーの携帯から送るのは、行き過ぎた演出だと思います。
それにつけても、アル・モンロー1番の友人と思われる死体遺棄の罪に当たる男の態度を含む言動すべてが、凄く男性的同調圧力でありつつ助けているようで実は貸しを作っている、という感じがして、薄っぺらくて嫌な感じで最高でした。見事に体現されています。
私は一瞬、この映画が、ヒロイックに終わるのかと思ってしまったのです。それは、キャシーま見つからず、男性たちは起こった事実を忘れて、それでも平穏に生きてる、という結末なのかと、一瞬は思ってしまいました。そうしなかった、罪を償わせる、という意味ではハードボイルド、という我慢して黙っている俺、浸る俺渋い、に行かなくて良かったと思います。ハードボイルドでは説明しない、陰のある、で良い事になっている部分を、そうしない、というのは良かったです。
それと、加担した女性マディソン、そして学部長に対しても同等の扱いをするのは良かったし、この人たちからは、凄くささやかで本当に微細と言ってよいけれど、悪かった、という態度、謝罪の言葉は、有ったと思います。しかし、マディソンの、あの時はそれが笑えた、可笑しかった、という素直な心情の吐露を、私は一貫性のない、その時々で、気分で態度を変える、いやな奴だな、とは思いました。でも、こういう人も居ると思います。ただ、それが凄く共感ベースに出来る女性だから、という気がしてならないし、謝罪は出来ても、凄く嫌な奴だ、結局女性側にも多大な問題がある、という浮彫にもなっていて、この問題の根深さを感じます。
あ、車!車を破損させた罪については、キャシーも償っていないんですよ。完璧な人なんていない。しかし、被害に遭ったのが自分の大切な人であれば、当然憤慨するはずです。
うん、でも凄く良かったし、気付かされるし、面白かったです。
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