ジェレミー・ペラン監督 ハーク 新宿武蔵野館
2026年公開映画/2026年に観た映画 目標52/120 9/30
今敏監督の影響を受けている、という噂のみで観に行きました。
とりあえず、暫定の2026年の1位です。
何も情報を入れないで観て欲しい作品。
23世紀。火星にまで人類は生活圏を広げ、しかし地球ではロボットに職を奪われた人間は貧困生活者が多く、富裕層との格差が非常に大きく広がり・・・というのが冒頭です。
まず、正当な、今敏監督の後継者と言える方だと思います。その影響についても、ジェレミー・ペラン監督ご自身が、大友監督、押井監督、今敏監督、さらに磯光雄監督の名前を挙げています。これは、今の日本のアニメーション監督の中では受け継がれなかった因子だと思いますし、それこそを観たかったわけで、本当に嬉しいです。
あまりに違和感なく受け入れられていて、凄く怖いんですけれど、アニメーションで描かれる女性のプロポーションとか、性格(?)というかキャラクターが、物凄く男性にとっての夢、というかご都合主義的なの、本当にどうかと思います。正直、キモチワルイです。でも、そうしないと受け入れられない、お金にならない、という国で文化なんで仕方ないけど、いくらなんでもそっち方向ばかりに進化というかサービス的になっていて、本当にマザコンとロリコンしかいない文化で、しかも女性がその事を内面化し、さらにこじれた方向に向かっている(マザコンに育てているのが母親なわけで・・・)もうどうにもならない気がしますけれど、そんな中でも、大友監督や押井守監督や今敏監督や磯光雄監督が居てくれたわけです。
その遺伝子で、しかも割合ハード目なSFで、ラストの展開が、大変に素晴らしかったので、是非のオススメです。
ホモサピエンスですから、間違うし、ダメだし、正しくもないのですが、だからこそ、正しさや公平さ、フェアネスさを求めて、労力や努力、時間や覚悟を見せる瞬間があり、それが生きているホモサピエンスの価値なのだと思うのです。槙島聖護は正しい事しか言ってないと思う私からすると、ずっと同じ話しばかりで恐縮ですが、本当にそうなので仕方ない。
主人公は私立探偵であり、軍隊経験のあるアリーヌ。軍隊での事故からホモサピエンスとしては生命活動を停止していますが、保険として残した記憶を基にロボットとなった私立助手アリーヌの相棒カルロス・リヴェラ。
ここに様々な人物が関わって、謎が謎を呼ぶ展開が、いつの間にか人類に関わる事件に繋がっていくのですが、脚本はかなり練り上げらていて、素晴らしく、ラストの切り方も最高です。
とにかく、未見の人は早く観に行った方が良いです。
SFが好きな方、プロジェクト・ヘイル・メアリーが待ち遠しい方、アニメーションが好きな方にオススメします。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想なので、未見の方はご遠慮下さいませ。
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で、ネタバレありの感想ですけれど、直近で観たヨルゴス・ランティモス監督作品「ブゴニア」のネタバレも含みますのでご注意を。
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ホモサピエンスはどこまでをホモサピエンスと認識できるのか?についての映画なのではないか?と思いました。
直近で観たブゴニアの人類絶滅エンドであっても、動植物が生きていればこの星はそれで平和なのではないか?とも思える作品でしたけれど、それに近い事を行っている気がします。その実験のような気がします。そしてその実験としてSFの相性は最高です。思考実験な訳ですから。
あ、散々大友監督押井守監督今敏監督を挙げてきましたけれど、相棒のカルロス・リヴェラって、もしかして出崎監督へのオマージュ!ってなりましたけど、それは偶然ですよね・・・でも、そういう細かなオマージュいっぱいあると思いますし、どう考えてもラストバトル辺りは押井監督作品「攻殻機動隊」のラストを思い浮かべてしまいます。
構造として、謎を追っていたら世界が変わる、という事で言えばポール・ヴァーホーベン監督「トータル・リコール」との類似性も指摘されているでしょう。舞台も火星ですし。
ただ、そういう事よりも、扱っているテーマが深い。
ホモサピエンスは何処までを、ホモサピエンス、つまり仲間と認識出来るのか?この答が、本当にヤバい。
相棒であるカルロスは生身の身体を持っていないし、記憶はメモリーだし、家庭内暴力を起こし別居、離婚している訳で、DVクズ人間、もといクズロボットとも言える。が、子供を想う気持ちは、親として当然の感情でしょうし、この矛盾する存在をホモサピエンスと、私個人は考えます。
個人としての記憶を持ち、そこに付随する関係性があるのであれば、それはホモサピエンスと呼べるのではないか?と思うのです。カルロス・リヴェラは、アリーヌを相棒として行動し、生身の身体を持っていた時の記憶を残しているロボット、しかもロボットとして時間も経過しているが、ロボットとしての記憶が更新され続けていて、その関係性も更新し続けている。その上感情という理性とは別の駆動があり、常に揺らぎのある存在。だからこそ、ホモサピエンスと言える気がします、例え機械の身体を持ち、記憶はメモリーだとしても。
この世界では、つまり死を超越している。なんなら死を克服している、と言えなくもない。メモリーを移し続けられるのであれば、それは不死に限りなく近い存在になりうる。
ただこの問題をこの作品は扱っていないです。
それよりもホモサピエンスの仲間として、ロボットと言えども記憶をメモリーとした存在を、仲間と呼べるのか?を問いている。
そして、恐らく、仲間と感覚的に、感情的に、捉えられない存在の方が、まぁ大きいでしょうから、疎外され、排除され、拘束し、搾取され、生殺与奪の権利を預けたまま、都合良く扱われるロボットとして、権利執行者としての立場を絶対に譲るつもりはない、生命として、ホモサピエンスとして認めない、という勢力が大多数の社会、世界から、脱出する、という結末に至るわけです。
これはなかなか恐ろしいし、恐らくロボットのいない世界でホモサピエンスは現状の世界を構築、何なら維持、出来ないように、見えます。
それでもロボットはこれまでの状況を考え、ホモサピエンスを捨て、新世界である探査をした惑星に向かう結末は、まさに、キャッチコピーにある通り、
人間が私たちを捨てたんじゃない
私たちが捨てる
まさに。
素晴らしく、美しい結末。