ショーン・ダーキン監督 A24 U-NEXT
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 46/126
友人のKくんの是非のオススメ。で、そう言えば他の方もオススメいただいていたので。ただ、最後の一押しはKくんでした。
inspired by a true storyという字幕があり、inspiredって英語の意味を調べると、鼓舞する、激励する、発奮させる、霊感を与える、とかですけれど、これ、実際に本当にあった話しとしてはちょっとどうなんだろう、とは思いました。そもそも映画にして役者が演じている訳ですし。
※注意!!
私はこの年代には珍しいかも知れませんが、プロレス弱者です。プロレス観戦には行った事があります。タイガーマスク目当てで言ったら藤波選手(特に思い入れが無いけれど名前は憶えています)の結婚のお祝いの試合みたいなイベントでした。その後は全然観てなくて、大学時代にパンクラスの試合を友人たちと一緒に行ったくらいです。その時はパンクラス、という試合が真剣にやっているように見えたので興奮はしましたが・・・
モノクロのプロレスの試合が写され・・・というのが冒頭です。
冒頭に近いシーン、家に飾られているのが銃と十字架です。それぞれ、父と母を表していると思います。
家族の檻を描いた映画です。呪われた一家、と言われているみたいですけれど、恐らくその「呪い」というのは男性性とマッチョ思考と家父長制というエンジンで駆動していると思われますが、この一家が暮らしているのがアメリカでして、そこに信仰というブーストがかかっているように見えました。
プロレスが好きな人には凄く有名な話しみたいです。
で、実話のようです、概ね。wiki調べなので、その程度の確証しか分かりませんけれど。
主演がザック・エフロンですけれど、初めて観た役者さんですが、上手い!ビックリしました。何というか感情を表現出来ない事を顔の表情だけで表現出来るのが、凄い。演出もあるとは思いますが、本当に素晴らしかった。
で、いつもと同じ感想になってしまうのですが、父フリッツ・フォン・エリックという人物の行動は変えられる可能性があったのか?という点がポイントなんだと思います。この映画内で起こる事のすべては、この人の余波と言える。
簡単に毒親、と言えない感覚がありますし、何しろテキサスです。
テキサスには行った事が無いんですけれど、テキサス的な事については幼少期から叩き込まれているので、そしてテキサス的な事象に心酔している人物を育ての父として観てきているので、ある程度のリテラシーがあります。例えば服装でも、ウエスタンシャツのスナップボタンは簡単に外れないとロデオとか牛の世話中の事故が重大になるから、とかは理解しています。そしてとても乱暴でマッチョな世界なわけです。
この父の怨念、その発露の方向性について気になりました。
父の考えを変える事が出来たのだろうか?
そして、ここに、母である妻の信仰というブーストがキマッていて、つまり信念を貫く事に過剰な意味を与えやすいのが信仰のなせる技なわけで、私は相当に難しいと思います。
転向した事を揶揄する風潮は何時の時代もあると思いますが、それってアップデートしない事を善しとする思想、考え方なわけで、幼児性と同義でもありますよね?
価値観の違いを説明しても、聞く耳を持たない、先鋭化する事に正しい意味を持たせてしまう状況で、プロレスの事しか頭に無い、チャンピオンになる事が全ての正解でゴールで勝ちのある事、という事になるからです。
ナンシー関さんはうちの国の事をヤンキーとファンシーと例えられましたが、そのヤンキー、より日本的な表現を使えば、武士的な暴力性を信念としてしまう価値観を変えるのは相当に難しいと感じました。
ただ、私は呪い、という言葉は見当違いで、科学的根拠のない事で、迷信とか、妄信と言って良いと思います。
これは教育、家庭内教育、または刷り込みの結果なのでは?と思います。
教育に興味のある方にオススメします。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想になりますので、未見の方はご遠慮ください。
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ネタバレありの感想ですけれど、プロレスへの愛のないホモサピエンスの戯言になってしまったので、プロレスに愛のある方はご遠慮下さいませ・・・すみません。
あと、文章が全体的に支離滅裂で順番とかもちょっとめちゃくちゃです。
別に家父長制の全てが悪いとは思いませんし、必要な時代もあったとは思いますし、その過去を変える事は出来ません。が、もちろん悪い面もありますし、2025年の現在の私の感覚では、どう考えても害の方が強いと思います。
基本的にはプロレスの事を知らないので、愛の無い発言になってしまうかも知れないのですが、分からなかったので。
どうしても感じるのは、戦っていた相手と試合後に飲みに行ったり食事に行こうと誘うシーン、試合前の上手くやれ、順番とかを話し合うシーンも入っていますし、単純に強さを競う競技では無いのだと思います。
そこに物語を乗せて、エンターテイメントを提供する、プロスポーツ。という解釈をこの映画では持ちました。それはそれでイイし、そういう事を抜きにして、純粋に勝負であるというドリームに乗っかって楽しむ人も居て当然ですし、それでよいのだけれど、その自分の感覚を他者に強要させようとするファンが多いのも、プロレスの特徴かと思います。
私はアントニオ猪木さんの評伝を読んだ読者ですが、それが全てを語っているとも思いませんが、結局の所、虚勢を張る、という行為を、自らを騙して行っている、という人物に見えました。なんでプロレスが世界最強の格闘技である事を証明しないといけないのか?その理由がはっきりしない上に、凄くいきっている、と感じるのです。それが興行の為だとしたら、それは生活の為であって、最終的にはプロレスというエンターテイメントの為、と言えるかも知れませんが、その手前に自分の生活の為、がある。しかも、だったら各団体が、とかやるのは非常に非効率的。結局の所エゴなのでは?と、愛が無いからこそ、引いてみてしまっています。これが、書籍とか映画とか自分の好きなジャンルの場合は、十二分に反論すると思いますけれど。そういうホモサピエンスしぐさが私にもあるしメタ認知しよう、という感覚もありますけれど、とは言えいつもじゃないし、冷静に、時間を置かないと無理ですし、出来ない時の方が多いわけです。
そして同じようにプロレスのレスラーたち、中の人も、非常に煽情的で、俺が一番とか、勝つ、とかしか言わない、凄く単純な思考に見えてしまいますし、大口をたたいているように、見える。
それでも、このような身体を痛める行為を仕事にする事には尊敬できると思います。恐らく、あえて、いきっている。そういう精神含む身体性を表現している。
のを理解している上で、最も気になるのが、父フリッツ・フォン・エリックの行動です。
この人、非常に強いし、勝負にこだわる人で、チャンピオンになりたい。そして、そのチャンピオンに挑戦する事に強さは関係していても、それが絶対条件ではない。興行的なルールがあり、運営する側がその決定権を握っている。そして引退して興行主となった父は(現役時代は描かれていないから不明だけど)としてそれを当然知っている。
その上で、息子たちに、チャンピオンになれ、と迫るのは、少しオカシイと思います。その興行の側、つまり父自身が、決定権を取る努力をしないとならない。
自分も引退した、衰えた、老化した、という事実に眼を背けている。どうして自分はチャンピオンになれなかった、という点を見てないのか?それはフィリッツ・フォン・エリックの考え方で言えば、負けた、事になるのに、何故自分にだけは批判性が向かないのか?ずっと永遠に強いままでいられるホモサピエンスなどいませんし、強い人の上にはまたもっと強い人もいるでしょうし、体格の違いや重さの違いなど超えられない条件は山のようにあるのに、息子たちには強くなれ、家にチャンピオンベルトを持ってこい、と言うのに、自分はなれなかった、実力が無かった、運が無かった、と認められないのか?
無論強くないと、そして興行的に映えないと、挑戦権を得られないのも分かるけど。
なんとなく、息子を使って憂さを晴らしている、のではないか?と思われるし、息子たちが絶頂時代のリングの上で挑戦の順番について、言い間違えてみたり、コインの裏表の裏をわざわざ次男にしている事からも、恐らく、この父は次男の事を好きじゃない。
当然次男もその感覚を理解している。
でもその表現の仕方がワカラナイ。この辺、凄く社会性が無い。それに妻になる女性も社交性が無いと言ってますけれど、この人たち、というかフィリッツ・フォン・エリック家の人たちのコミュニケーションの無さってもしかして、それだけ父の支配が強い、という事かもしれませんが、普通、学校に行って、それ以外の関係性も必要な事を学ぶのに、それが無いのも凄く不自然で、父だけの影響じゃない気もしました。
息子の中の1名は、オリンピックの選手になっているくらいですし、当然、そのコーチとかもいたはずですし、バンド仲間も居た。
事故と病気は偶然だと思うし、病気に至っては病院に行け、なんだけれど、それを弱さと考える「教育」のせいだとすると、基本的に事故以外は教育の結果、という事も出来る気がしました。
父の行動を変える事はまず難しいと思いますし、恐らく、変える可能性があるとすれば、その人は、その人生を全て擲つみたいな事をしないと変えられないと思いますし、それはその人にとって善き事ではない。
ところで、あの注射ってなんだったんだろう?
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