井の頭歯科

「Never Rarely Sometimes Always」邦題「17歳の瞳に映る世界」を観ました

2021年8月13日 (金) 09:34

エリザ・ヒットマン監督       ユニバーサル・フォーカス・ビターエンド・パルコ・BBC

事前情報を全く調べないで来たのですが、凄くそれが良かったです。

恐らく学校の文化祭的な舞台に様々な生徒、と思われる人間が立ち、パフォーマンスを行なっています。ほとんどが仮装したり、歌を歌う感じです。そんな中、ギター1本で、立って演奏する女性。恐らく自作の歌詞で曲であろうことが伺えるのですが、その眼差しは真剣で歌声にも何かしらの訴える力があるのですが・・・というのが冒頭です。

初めて観る監督エリザ・ヒットマンです。印象としては昨年の傑作キム・ポラ監督作品「はちどり」(の感想は こちら )に最も近いです。これはやはり観客である受け手が、今、何が起こっているのか?という能動性を持って望まないといけない作品でありますし、何が面白いの?と聞かれて、単純に言葉にするのが憚られる作品ではありますが、とても、とても残る、余韻に浸れる、いつでもこの映画作品の中に帰れる、そんな作品です。

そもそも、面白さ、というのは単純にただ蛇口を捻って出せるものではなく(そういうものも、もちろんありますけれど)、時には雨乞いさえ必要だ、と言ったのは村上春樹だったと思いますが、この面白さは、観客も雨乞いに参加しなければならない種類の面白さです。そういう映画だけが素晴らしいさわけではありませんけれど、こういう映画も必要だと思います。特にこの映画のテーマを考えると、観客にも参加を求める、自分毎にする能動性さえあれば、非常に潤沢で芳醇な味わいのある作品であるのは間違いないと思います。

テーマは恐らく、女性にとっての世界、女性である事に起因する世界の暴力性、とも言って良いと思います。しかし、この作品はそれを言葉では語りませんし、恐らくアメリカである必然もないと思います、多分日本でも同じような、もしかするともっと酷い事態があると思います。

世界の半分くらいは男性で、半分くらいは女性なんですけれど、その女性側、それも17歳という未成年者が生きる2020年(今作のアメリカ公開は2020年)の現代ではまだ何処ででも起きうる、女性であることだけで被る不快感が画面に映し出されています。

ちょっと、いくらなんでも、という出来事から、あ、無意識だとしても、私も軽率にも行なっていたかもしれない、もしくはその行為が行われている隣りで黙っていた、黙認していた、かもしれない、という事まで様々な出来事が起こります。一貫して、それは相手によっては明らかに不快であろう事が想像出来うるのに、面倒だから、己の欲望しか見えていないから、蔑視しているから、マウンティングとして、などのこちらには不可避な理由で行われるのです。理不尽、そう多くの人が感じるでしょう。

今年のベストと言い切ってしまえる名作「プロミシング・ヤング・ウーマン」の前日譚を描いているようにさえ感じます。「プロミシング・ヤング・ウーマン」の主役キャシーにとっては数年前の出来事となっていますけれど、こちらはまさに今の時代の事です。

未成年者でも起こりうるある事態があり、家族の中にも、そして学校にも居場所がない主人公のオータムが、ある事態の解決に向けてNYに行く。ただそれだけのストーリィです。

親にも頼れず、自分の責任を果たす為の旅、ロードムービー的な部分もあります。NYには行った事がありませんけれど、何度も映画の中でだったら見た事があった街ではありますけれど、さも初めて、それも深刻な状態に陥った17歳が見たNYに感じられる、映像の力は凄まじく、冷酷に、NYを映しています。この絵の力は非常に大きいと思います。全然アッパーな感じに見えないんです、世界有数の都のはずなのに・・・祝祭感が全くないNY初めて観ましたけれど、きっとこれもNYなんだと思います。

そして、主演のオータムを演じたシドニー・フラニガンの目の演技、ここが凄まじいです。ほとんど会話にならない、単語で喋る女性の、目の演技の確かさ、異常に高い演技力だと思います。物凄く難しい要求がされているであろう事は容易に想像できます。キム・ポラ監督「はちどり」の主演パク・ジフの演技も素晴らしかったですが、これは甲乙つけがたいくらいの逸材です。

対照的な、というかもう1名の主役オータムのいとこを演じたタリア・ライダーの、まぁ整った、というか恐らく多くの男性に好かれるであろう美貌、を持て余し気味の感じ、この2人の関係性の妙も、この映画のミステリアスな魅力の1つだと思います。この対称性が、ちょっとツイストが効いています。

しかし出てくる男、父、同級生、バイト先の責任者、バスにたまたま居合わせた男、電車の中での男、そのどれもが、野放図な男性性の発露に満ちていて、本当に嫌な気持ちになります。これは私も同じ男で、こんな事はした事がない、直接は無いと言えるのに、しかし黙って見ていた、黙認した、に近いことが100%無い、と言い切れないからの居心地の悪さを伴った失意を覚えさせてくれます。

価値ある映画。

映画が好きな人に、オススメ致します。

ネタバレありの感想です、未見の方はご遠慮ください。
ただ、世界を拒絶に近い憎悪を持って接していて、しかし唄う事は好きなオータム。
学校にも家庭にも、バイト先にも居場所が無く、自分から話したい相手はいとこのスカイラーしかいないのに、そのスカイラーは女性としての持てる何かを無自覚(そうに見える)である事で、非常にキツいはずですが、彼女しかいないオータム。
恐らく父は母の再婚相手であり、母が演奏について良かったって言ってあげて、と言われて、母親がそう言ってる、と伝えてくる無神経さの持ち主であり、家族でTVを観ている最中であったとしても、常に性的な発言を繰り返す(この程度が性的な発言なのか?という人も居るかも知れませんけれど、当然感じる側にその自由があるし、私から見ても無神経、だが、そう育てられたのかも知れないとは、思う)家族に頼りたい、相談したい、とは思えない。そもそも自分なんかよりももっと小さな女の子2名がいて、既に母親のキャパシティーはオータムからみても限界を超えているように見える。
さらにバイト先のレジを閉める時には、金額を確認した上で、手だけが入る、まるで両替の時のような小さな窓口にお金と一緒に差し出すと、バイト先の店長が手を舐めてくる、という完全に真っ黒の不快感を、恐らく毎回伴っている。そして告発しようとしても、自分がバイト先を首になるだけであろう事は、よく分かる。
演奏時に、非常に子供っぽい野次を入れてくる同級生に対しても、どうしたら止められるか?が判然としない。何しろ他人であるし、男とつるんで陰口をたたいて嘲笑している事で満足しているような輩なのだから。 何処にも行き場所が無い、理不尽に抗う術がない。
そういうモノは抗うのではなく順応して、処世術として切り離す、という手段を用いたであろう事が何となく理解出来る母親と同じ轍を踏みたくはない。踏みたくはないのだが、逃げる手段すら簡単ではない。
そんなオータムが妊娠している事が分かる。 恥を忍んで検査に向かえば、簡易検査はやったと言っても、同じことの繰り返しで消耗する。その上陽性がはっきりした段階で、非常に凝り固まった50年くらい前の道徳観念でしか判断しない、しかも同性である女の検査員が、中絶は悪、という大上段の生命道徳観念で、すりつぶしにかかってくる。
理不尽極まりない地獄のように見える。出口が何処にもない。
もし、私が女だとして、このオータムと同じ状況に陥った場合、恐らく何も出来ないだろうし、もっと絶望していると思う。
腕力で勝てない上に、未成年で、金銭力も無く、貯金も無い。その上に、勝手にというか見境なく分別も無く無神経に性的な搾取の相手としてしか女を見ていない男しか出てこないある種の地獄に、居るように見える。 それでもオータムは、いつも 男になりたかった、と告白している。ここだけはっきりとオータムが、唯一と言っていいくらいにはっきり、躊躇なく alltime と口にしている。原題であるNever Rarely Sometimes Alwaysという後に聞かれる4択よりも、もっとも強い肯定を選んでいる。
映画内では何も語られないが、オータムの相手が居た事だけは間違いが無い。家庭内だったかもしれないし、あの悪態をつく同級生かもしれないし、はたまたバイト先の店長だったのかもしれない。しかし、合意があったとは思えない。それでも、オータムは相手を複数と言っているし、暴力的に脅された上の行為であったことは、めったにないと答えている。どのような関係だったのかを想像するのは極めて難しい。しかしはっきりしているのは、オータムは相手を頼るつもりも、相談するつもりもない、という事だけだ。
それでも、オータムには多分やりたい事があるのだと思う。歌を歌う事なのかもしれない。
確かに穿った見方をすれば、ある種の自業自得に、見えなくもないし、金については犯罪ですらあるし、そもそも世界は暴力的で理不尽だし、救いが無い。
しかし、それでも、男と女でここまで違うのか?と言うくらいには、ショッキングな内容であったし、身体性を伴って想像出来るか?と言われても、分からないとしか答えようがないが。 そして、物凄く暗い未来を想像してしまう。
私だって世界がより良い方向に変わって欲しいし、出来れば公平性と言うモノ、それも機会の公平性を重要視してもらいたい、などの希望がある。女性や男性という性差もなくなりはしないであろうけれど、その性差に起因する不快感を持つ側に、その不快感が少なくなるように努力もしたいと思う。それがマナーになれば良いと思う。
しかし、恐らく男性である事を止めることはかなり難しいし、腕力、という暴力が、この生き物の長所で、その長所を基にした行動の結果であったり、性別の役割と言う意味においても、男性に妊娠させるのはかなり技術が必要で、長所を封じる、捨てさせるのは難しいであろうし、特にこの映画の中に出てくる、
バイト先の店長が悔い改めるとは思えないし、
深夜の電車の中でチャックを下げる下衆が反省する可能性は少ないし、
揶揄する同級生の頭が良くなって平等性の重要性を説きはじめる事は無さそうであるし、
父親が親子愛に目覚めるのも奇跡に近いと思う。 それでも、世界は少しでも良くなりつつあるし、
世界うんぬんよりも、自分が自分を振り返って恥ずかしくない行動を取り続ける努力しかないような気がする。
男性のリビドーによる理性を脇に置く事は、は果たして本能なのだろうか?

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