スコット・ベック ブライアン・ウッズ監督 A24 新宿ピカデリー
2025年公開映画/2025年に観た映画 目標52/120 16/45
A24で宗教の映画、という噂だけなんですけれど、見て見ようと思ったので。結構な良作だと思います。ま、ある種のおためごかしも、日和ってもいるんですけれど。でも基本的には非常に真摯に取り組んでいる。
ヒュー・グラント、あまり観た事が無い俳優さんですが、とても有名な方。でも私は全然映画で観てないと思います。wiki情報ですけれど、ポランスキーの「赤い航路」、「日の名残り」、「ダンジョン&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り」でしか見てないですね。でも映画の予告編を映画館で観ている中で、かなりの回数見ている気がしますし、だいたいがラブコメなんで、まぁ合わなかっただけで、今回の映画の主役ですし、演技も大変良かったです。
かなり辛辣なある方面の話しをして、自転車を押している2名の女性たちが・・・というのが冒頭です。
確かに、宗教の映画でした。タイトルも原題は「HERETIC」異端者ですし。ただし、いつも思うのは、何が普通か?とは単純に言えないのではないか?と思ってしまうのです。だから、何が異端なのか?を明確に定義付けるの、難しいと思います。
また、神秘体験も同じで、その人にとっての真実である事と、体験があったから、感じたからでは、皆にとっての証明や奇跡ではない、と思うのです。その人にとって、なら別に全然良いです。でも布教する自由があれば、布教を断る自由もある。
ミスター・リード氏のような見解も、全然普通にあると思いますし、なんなら私にはこちらの方が全然普通な気がします。いわゆる末日聖徒イエス・キリスト教会の考え方、というか起こり、そして様々なアレの方がよっぽど異端に見えますし、なんなら現代2025年現在で、信仰を告白出来る方が異端に近いのでは?と思ったりもしますが、心の中の信仰を否定するつもりはないですし、宗教という文化がホモサピエンスの道徳やモラル、規範を成立させる過程で重大な役割を果たした事は認める事が出来ますし、過去についてどうこうというつもりはないですし、文化として理解出来ます。ですが、信仰となると、現代では、なかなか難しいと思います。
社会の変化やテクノロジーの進化を見越してはいなかったけれど、それくらい古くからある宗教や因習ともいうべき儀式としての文化的な意味は理解出来るけれど、神という概念は、ちょっとどうかと思います。けれど、福音派が政治の中枢を握る超大国が存在する現在でもあるので、私の考えも異端な可能性はありますね。
ともかく、ネタバレありな感想がある作品。
基本的には宗教を扱った映画で、ホラーっぽさもありますけれど、なんというか、宗教が最も重要なトピックの作品。
宗教という文化に興味のある方、神という存在について考えた事がある方にオススメします。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想です、未見の方はご注意下さい。
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ネタバレありの感想ですけれど、
まず、結構導入が長いです。かなりしっかり描かれています。そして、まぁみんな考えた感じになるよね!とは思います。
私は無宗教というか、どんな文化でも独自に変えてしまう沼のような国で育ち人格形成を行ったので、宗教とか神に対して無自覚に自我を持てた事は幸運だと思っています。うちの星では基本宗教が強く親子関係に響く地域が大きいですから。
なんなら自我が目覚める前に洗礼とか言って、個人の人格を無視してその宗教の教義に当てはめた生活を強いるわけです。その後必ず自我が目覚めるのに。親としてよかれ、とは思っているでしょうけれど、自我が目覚め、成人してから、親の宗教的な考えを受け入れるか、避けるかを決めさせるのではなく、自我の無い頃に洗礼を受けさせているなんて、ちょっとどうかしている。異端に、私からは見えます、文化的にずっと続いてきた事とは言え・・・
ホモサピエンスとしては、文化的な意味で、神、という概念をそろそろ手放す時期なのではないか?と思います、争いの発端になって久しいですし・・・無宗教に改宗しろ、と言っているわけではないんです。神という概念をアップグレードした方が、と思っているという事です。
一神教の唯一とかやってしまうと、争いが生じやすい。何故なら、何が唯一神であるか、誰にも認められないし、証明出来ない。けれど自分の中では教義でも神秘体験でも信仰があって良いが、他者と巻き込むな、と思うのです。万能な神が何で信仰を求めるのでしょうか?とか、いろいろあるんだけれど、神という概念をもう少し文化的にも科学的にも定義しなおす時期に来ていると思うのですが、信仰のある人にとって、レーゾンデートルになってるわけで、そこまで行く前に、もう少し考えてみませんか?という事に尽きると思いますが、なかなか生まれてすぐ洗礼とかをやるので、話し合いにならないですね・・・
だってモノポリーで例えるのが不遜とか言い出されている訳で、まぁ信仰がある人からしたら、そういうモノなのかも知れないし、現に福音派という過激思想の支持を集めて頭の狂った、知能指数の低い、権力者が現れている現代なので、私の方が異端なのかも、とも思います。あ、頭が悪い人とはディールなんてする気になれないのに、しなければヤバい、という状況だとて、やるべきではないと思いますよ、だって頭が悪いから、前言撤回に恥じを感じたり誤った判断だと認める事が出来ず、ルールに対しても分かったふりをしているわけで、そもそも話し合いが成立しないくらい頭が悪いので、意味が無い。
あなたの尊敬する、信仰する、かけがえのない、何かを批判している訳で、あなたの存在を批判しているわけではないし、感情的にならずに、議論をしましょう、という事が出来ないホモサピエンスはまだ進化の過程にいるんでしょう・・・進化を嫌う人もいるでしょうし。この辺は私だってあまり得意ではないけれど、好きなものをすぐ神とかいって崇め奉る文化のうちの国だと、その行為自体が不遜になる、という事すらわからない可能性がありますから・・・
ミスター・リードの意見、凄く同意出来てしまいます。なんというか、ブリガム・ヤングに関する著作を読んだ事がありますけれど、なかなかな人物です、いろいろな意味で。特に末日聖徒イエス・キリスト教会という教団は、なかなかな過激な集団ですから。何と言っても聖書ではない書物を教義にしていますし、かなり異質だと思います、キリスト教内でも。
その上で、宗教とは、結局のところ支配だと言い切るのも、なかなかな異端・・・それもこんな家まで作って、独自の宗教的な説法を用いて、新たな信者獲得の為なのか?もしくはそっちが布教する自由を行使しているなら、こっちもそちらの教義に対して、私の解釈を行使する自由がある、とでも思っているのかも知れません。
で、この映画のミスター・リードをマンスプレイニングだ、と批判しているの、凄く触ります・・・こういう新しい言葉を定義する事は重要ですし、作られた経緯も気になる・・・
あくまでWikipedia情報です、間違いもある事を知った上で、取りあえず、で定義されている内容を観ると『男が見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で、女性や子供に何かについてコメントしたり、説明したりする事』となっています。
ハラスメントという概念は重要なんだけれど、定義として、いやがらせ。つまり被害者が思えば、成立する。だからこそ大切なんだけれど、これが頻発、利用できると思った人の乱用や悪用の被害もあるので、大変難しい・・・
ただ、当然ですけれど、人を困らせる事をやらない事が重要なんですけれど、ね。法もそうですけれど、マナーモラルなんでもいいけれど、簡単に破ってる人、浅薄な人が加害を起こす事で、ルールは細分化され、厳しくなり、大変になるわけで、まぁキツいです。
なのでマンスプレイニングも当然同じで、めちゃくちゃミスター・リードは加害的なんだけれど、当然マンスプレイニングに値すると思うけれど、布教するってこういう事もありうるとは思います。
それにしても確かにマンスプレイニング的な場面、たくさん見てきたし、だから仕方ないし、私も片棒担いでいた可能性も否定できないし、なんならやってた可能性もある。けど、そうでもない場合でも簡単に、マンスプレイニングされた、と言われそうだという恐怖が存在するわけで、顔がイイとか清潔感があるとか、若いを持ってないブサイク村出身のおじさんは世界の片隅で生きるしかないな。
結局、ミスター・リード氏は何処までを考えていたのだろうか・・・
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